三井の歴史 [明治期]

持株会社
「三井合名」設立

執筆・監修:三友新聞社

日露戦争後、三井が取り組んだのが統括組織と各事業の法人化であった。明治26年(1893)、三井総領家第10代当主・三井八郎右衞門高棟は家政改革に着手し、それまで呼ばれていた三井組を三井元方と改称。最高議決機関「三井家同族会」を設置し、組織の明確化を進めたが、欧米では資本主義経済が発展するにつれ、合名会社から株式会社へと変遷し、かつ企業の集中化が行われていた。明治39年(1906)、三井家の副顧問を務めていた益田孝は欧米を歴訪し、三井家同族会に「営業組織に対する意見書」を提出。益田は三井家同族や統括機関である三井元方は法人格を持たないため、事業は統括できても、三井銀行・旧三井物産・三井鉱山などが無限責任の合名会社では、三井家の資産を守れないため、有限責任株式会社化を提案した。

検討の結果、三井家営業組織改正の大枠が決まった。主な内容は、(1)三井家の11名のみを出資社員とする合名会社を設立、(2)三井銀行・旧三井物産の株式会社化、(3)三井鉱山を三井合名鉱山部とする、などである。

全体の資産を統合し、本社を合名会社として傘下に株式会社化した子会社を置く形は、イギリスのロスチャイルド家に見られるコンツェルン形態であった。

三井の財閥体制確立

こうして明治42年(1909)11月、日本初のホールディング・カンパニーである「三井合名会社」が設立され、高棟が社長に就任した。三井家以外では團琢磨など5名の参事のほか、益田は顧問に選任された。直轄事業のうち、三井銀行、旧三井物産の2社は合名会社から株式会社化へ改組、三井鉱山は三井合名に吸収され、三井合名鉱山部を経て、2年後に株式会社となった。ここに三井の財閥体制が確立したのである。

また、三井合名は直営事業として三井家の所有する土地・建物を管理する不動産課や農林・製茶事業を手掛ける農林課を置いた。やがて不動産課は三井合名の組織改正を経て昭和16年(1941)に三井不動産となった。農林課は昭和5年(1930)に初の国産缶入りブランド紅茶「日東紅茶」を発売、昭和11年(1936)に三井合名から独立し、昭和17年(1942)、社名を三井農林に改称した。

その後、三井合名の直系会社には三井銀行・旧三井物産・三井鉱山のほか、三井信託、三井生命、三井倉庫などが加わっていく。

  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

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