三井の歴史 [明治期]

日本初の
民間銀行を設立

執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井文庫

時代は明治に入り、江戸は東京と改称。鉄道の敷設や郵便の実施など西洋文明が積極的に取り入れられ、文明開花の波が訪れる。幕府の金融関係を一手に請け負っていた三井御用所は新政府においても、「三井組御用所」(御為替方御用所)としてその役割を引き受けた。明治政府が金融面でまず取り組んだのが貨幣制度改革である。明治になっても徳川幕府が発行した金・銀・銅貨は流通したままで、貨幣単位も「両」であった。明治政府は全国通用の紙幣・太政官札の発行などで急場を凌いでいたが、明治4年(1871)、新貨条例を公布。円、銭、厘の10進法貨幣単位を定め、新貨の鋳造に着手した。

新貨の鋳造は、同時に旧貨幣を回収し、材料の地金銀を回収しなければならない。明治政府で貨幣制度改革を担当していた大蔵省の井上薫や渋沢栄一と親しく接触していた三野村利左衛門の働きにより、三井は維新来、為替方として肩を並べていた小野・島田の両組を出し抜いて単独で新旧貨幣の交換業務を請け負う。早速、同年「為換座三井組」を設立し、東京・大阪・京都・横浜・神戸・函館で1両を1円とする交換業務を始めた。

しかし、造幣局の鋳造能力は限界に達しており、地金も不足している上、太政官札の流通期限も迫っていた。そこで、銀行設立も視野に入れていた三井は大蔵省に兌換証券(正貨が支払われることを約した一時的紙幣)の発行を要請。大蔵大輔・井上馨と右腕である渋沢栄一らの了承を得て、兌換証券は為換座三井組の名義で発行され、「三井札」と呼ばれた。

日本初の銀行建築「海運橋三井組ハウス」

なお、長州志士から維新の元勲となった井上は明治後、三井と強い繋がりを持ち、旧三井物産の設立や三井家の顧問として三井家憲の制定にも携わる一方、西郷隆盛からは「三井の番頭どん」と揶揄されたという逸話があり、当時の政商・三井を物語っている。

明治政府を金融面で支えた三井組は明治5年(1872)、現在の中央区日本橋1丁目及び兜町にかかっていた海運橋際に日本初の銀行建築「海運橋三井組ハウス」を完成させる。総工費は約4万7,000両。5層の洋館は頂上部に展望台である「物見」が据えられ、世間の話題を集めた。

三井はここに大元方、御用所、為換座を集約させ、銀行の設立へ向け全情熱を傾けていく。

三井組と同じく、小野組、そして明治政府も銀行の設立を目指していた。大蔵省で国立銀行の準備に当たっていた渋沢は三井・小野両組共同での銀行設立を提案。独自の私立銀行を望んでいた両組は政府主導による銀行の共同経営は避けたいところであったが、公金取り扱いの特権剥奪を条件に出され、やむなく「三井小野組合バンク」の創設に協力することとなる。

さらに政府の要求により、三井組は建物として完成したばかりの「海運橋三井組ハウス」を譲渡せざるを得なかった。三野村は総工費の倍額以上でこれを譲った。ちなみに「バンク」の「銀行」という訳語は渋沢の「金行」という提案に、三野村が「交換(取り扱い)には銀も含む」と答え、「銀行」となったという。

かくして明治6年(1873)、三井・小野両組合作の日本初の銀行「第一国立銀行」が発足。三井、小野の両当主が頭取、三野村は支配人、渋沢はこの銀行を主宰する総監役となった。ただ、三井・小野とも独自銀行を欲していたので、銀行業務より各県の出納・為替業務に専念していた。

ところが明治7年(1874)、明治政府は突如、公金預かり高に対する抵当増額令を発令。それまで預かり金の担保額は3分の1だったが、これを改め、同額の担保とした。三井・小野・島田の3組にとっては晴天の霹靂であった。これは公金の放漫な取り扱いに危機感を持った政府が発令したもので、相場や投機に多くの公金を流していた小野・島田は耐えきれず、倒産。井上・渋沢の息のかかった三井は前もってこの令を通達されていたともいわれ、辛うじて危機を乗り切った。

三井銀行の前身「為換バンク三井組」

三野村は共同出資者である小野組の破綻により、第一国立銀行を三井の銀行とすることを企図するが、渋沢は逆に同行を三井組の支配から独立させる組織改正を提唱した。

それでも三野村は銀行設立をあきらめず、三井組は第一国立銀行の業務から手を引き、明治7年、三井の本拠地である日本橋駿河町に、銀行業務を行う3階建ての洋館「駿河町為換バンク三井組ハウス」を建設。屋上にシャチを乗せた瀟洒な洋館には「為換バンク三井組」の看板を掲げた。「海運橋三井組ハウス」の譲渡金で建てたハウスを三野村は「タダでできたようなもの」と一笑したという。

そして、明治9年(1876)7月、ついに明治政府から認可を得て、日本初の民間銀行「三井銀行」が開業した。三井銀行の設立と前後して同年、旧三井物産も創設されたが、これらの設立に尽力した大番頭・三野村は病床にあり、三井銀行の開業式典にも出席できず、翌明治10年(1877)、57歳で病没する。

  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

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