三井の歴史 [明治期]

旧三井物産の創立

執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井文庫

旧三井物産初代社長・益田孝

三井銀行と時を同じくして産声を上げたのが旧三井物産である。開業年月は三井銀行・旧三井物産ともに明治9年(1876)7月。しかし、両社の誕生は全く異なる経緯であった。

三井銀行が両替店を発展させ、三井組の肝入りで設立されたのに対し、旧三井物産は井上馨・益田孝らによる貿易会社「先収会社」を前身とする。大蔵省の官吏であった井上、益田、渋沢栄一らは明治6年(1873)、明治政府に財政改革意見書を提出して下野。井上は先収会社を興し、益田は頭取に就任する。佐渡奉行の下役人の子である益田は幕末、幕府使節団の随員として渡欧経験を持ち、英語に堪能で、幕府軍の騎兵隊長も務めた逸材である。維新後は井上の推挙で大蔵省入りした。先収会社の経営は順調で、米・茶・武器・肥料などの取引を行った。

後に旧三井物産から日本麦酒へ派遣され、国内シェア70%の大日本麦酒社長となり、「東洋のビール王」と呼ばれる馬越恭平も益田の人脈で先収会社入りした1人である。

順風満帆の先収会社であったが、明治8年(1875)、井上は元老院議官に任ぜられ、再び政界へ転身する。会社の総裁であった井上なき後、先収会社は閉鎖することとなり、益田は残務整理に当たっていたが、ちょうど三野村利左衛門から井上を通じて益田に「貿易商社を興したいから、先収会社の連中を連れてきてもらいたい」と要請があった。

政商の三井を支えた元勲・井上馨

井上・三野村・益田の話し合いにより、三井組が先収会社の事業を引き継ぐことが決まった。

こうして明治9年、旧三井物産は正式に設立された。社主は三井武之助(五丁目初代高尚)、三井養之助(本村町家初代高明)、社長の益田は28歳であった。益田は旧三井物産の業務を、依頼を受けて物産を売り捌き、手数料を取る「コミッション・ビジネス」と表現した。

このため、手持ちの商品は必要なく、また、三井家では新設された旧三井物産が成功するかはまだわからず、三井銀行などに損害が及ばぬよう無資本会社での発足となった。これは旧三井物産の社章に「丸に井桁三」の丸がないことからも、三井家が当初直系会社と見ていなかったことがわかる。代わりに三井銀行と5万円を限度とする貸借契約を結び、これを運営資金に当てた。

旧三井物産の社員は創立時、十数名だったが、三井組で国内の諸物産販売を取り扱っていた「三井国産方」を合併したことにより、社員は70名以上に拡大。支店も国内のみならず、中国・上海などに開設し、事業を各地へ展開していく。

益田は旧三井物産の発展とともに三井財閥を率いる大人物となり、旧三井物産からは東レ、三井造船、商船三井、三機工業など現代の三井グループを代表する各社が数多く誕生していくこととなる。

  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

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