三井の歴史 [明治期]

呉服業の終焉と
三越の始まり

執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三越伊勢丹

明治維新後、近代化の波が押し寄せる一方で、旧態依然の商法や体質は時代から取り残されつつあった。三井組におけるそのひとつが越後屋呉服店である。越後屋は家祖・三井高利から続く三井家の家業であり、両替店とともに本業であったが、幕末から明治にかけての呉服業は不振を極めた。高利が考案した画期的商法の数々もこの頃になると同業者間では一般的となり、さらに倒幕による武家社会の崩壊は得意先の喪失を意味した。そこへ洋服も登場し、経営の圧迫に拍車をかけた。三井の統括機関である大元方も両替店の資金繰りを割いて呉服業の救済に乗り出すが、一向に成果は上がらなかった。

「丸越」は後に三越の店章となった

明治5年(1872)の正月、三井首脳陣は大蔵大輔・井上馨の邸に招かれ、そこで「三井家は呉服業を分離して、銀行設立に専念せよ」と内命を受けた。銀行設立を一番の目標としていた三井首脳陣はこれを了承した。とはいえ、伝統の家業を疎かにはできない。東京・京都・大阪の重役が集まり協議した結果、越後屋呉服店を大元方の所管事業から切り離した上で、新たに「三越家」を興し、三井家が三越家へ呉服業を譲渡する形を取り分離独立させることにした。「三越」の2文字は三井の「三」と越後屋の「越」の字に由来する。

三井家の中から伊皿子家7代当主・三井高生の次男・高信に三越得右衛門を名乗らせ当主とし、店章も「丸に井桁三」から「丸越」に改めた。

明治7年(1874)、日本橋駿河町に三越家経営の越後屋が新たに開店。明治19年(1886)には洋服部を新設し、明治21年(1888)に洋館建物「三越洋服店」をオープンさせた。

この頃、明治16年(1883)に「鹿鳴館」が完成し、華族と在日外国人の社交場として洋装の発信地になっていた。また、越後屋のライバル・白木屋も先んじて明治19年に洋服店を開いていた。

越後屋を合名会社とした「三井呉服店」

しかし、洋服は一般庶民までには中々浸透せず、三越洋服店は閉鎖。明治26年(1893)の商法施行に際し、三越得右衛門を三井姓に戻し、越後屋を合名会社に改組。再び三井家の事業とし、「三井呉服店」と改名、店章は「丸に井桁三」に戻された。

ここに三井高利から続いた「越後屋」の店名は失われた。高利が延宝元年(1673)に江戸で越後屋を開いてから230年、もはや呉服業は三井の主流事業ではなかった。

百貨店・三越を立ち上げた日比翁助

明治28年(1895)、慶応大学出身の三井銀行大阪支店長・高橋義雄が三井呉服店の理事に就任。高橋はアメリカの百貨店の研究をしており、ガラス張りショーケースの陳列や「意匠部」を新設するなど三井呉服店の近代化を図った。高橋は中上川彦次郎を通じて三井銀行本店副支配人の日比翁助に三井呉服店入りを勧め、明治31年(1898)、日比は三井呉服店副支配人となり、近代化改革をさらに推し進める。

明治37年(1904)12月、三井家の事業再編の中で三井呉服店は再び分離され、株式会社化した上で「三越呉服店」と名称を変更、店章を「丸越」と定める。

三越の専務となった日比は設立された同月、「デパートメントストア宣言」を全国主要新聞に広告掲載し、日本初の百貨店としての道を歩み始めた。明治39年(1906)、日比は欧米を視察し、イギリスのハロッズ百貨店を目標に決め、同年、洋服部を再開。靴、洋傘など三越ならではの輸入品を販売し、品揃えの幅を広げていった。また、宣伝にも工夫を凝らし、有名な広告コピー「今日は帝劇、明日は三越」も生まれた。

大正3年(1914)、三越呉服店の本店(現日本橋三越本店)はルネッサンス式鉄筋5階建ての新店舗となり、日本初のエスカレーターが設置され、全館暖房となり、時代をリードする百貨店となった。

ちなみに日本橋三越本店の正面玄関にある2頭のライオン像は大正3年、支配人だった日比翁助のアイデアで設置された。モデルとなったのは、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督像を囲むライオン像で、それを模した彫刻家・メリフィールトの模型を鋳造家・バルトンが制作した。日比はライオン好きで、自分の息子に「雷音」と名前を付けたほどだった。このライオン像は待ち合わせ場所や合格祈願の逸話が生まれるなど、三越のシンボルとして、現在も親しまれている。

なお、三越呉服店が正式に「三越」の名称となったのは昭和3年(1928)のことである。

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