三井史を彩る人々

向井忠晴
三井財閥最後の大物

執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井文庫

向井忠晴(1885~1982)

志望動機は「外国に行きたかった」

昭和初期から戦中にかけて三井財閥は民衆からは財閥批判、軍部からは圧力を受け、窮地に立たされる。逆風の中、旧三井物産のトップとして三井合名の改組を行うなど手腕を発揮し、三井総元方の理事長となったのが向井忠晴である。

向井は明治18年(1885)、東京に生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、明治37年(1904)、19歳で旧三井物産に入社する。入社動機は「外国に行きたかった」という。

この年は日露戦争開戦の年でもあり、後に勃発する第一次世界大戦など戦争景気の影響で旧三井物産が急成長を遂げた時期である。向井は入社後、上海支店に6年間勤務し、その後、ロンドン支店に10年間赴任。第一次世界大戦を目の当たりにする。向井が海外にいた16年間で、旧三井物産の輸出入取扱高は約8倍、外国間貿易の割合も10倍にまで拡大した。

三井合名と旧三井物産を合併

大正9年(1920)にいったん帰国するが、再び海外勤務となり、天津支店長、ロンドン支店長を経て昭和3年(1928)に帰国して本店営業部長に就任する。同年には中国で軍閥・張作霖が関東軍により爆殺され、前年には金融恐慌が起こるなど国内外で不穏な空気が漂い始めていた。さらに財閥批判の声が強まる中で昭和7年(1932)、三井合名理事長の團琢磨が血盟団により暗殺される。このような時勢に向井は旧三井物産の役員から三井財閥の中心人物としての大任を負う事になる。昭和8年(1933)に取締役、翌年に常務取締役、14年(1939)には代表取締役会長に就任する(当時は社長を置かない会長制)。

三井合名は昭和15年(1940)、政府の戦費調達を目的とした大増税案に対抗するため、子会社である旧三井物産と合併。新たに三井傘下事業の統括機関として法人格を持たない「三井総元方」が設立され、向井は総元方理事長に就任、戦時下の三井の舵取り役を任された。

山西事件で全役員が辞任

昭和18年(1943)、軍部の対応に苦慮する旧三井物産を揺るがす大事件が起きた。「山西事件」である。旧三井物産は中国山西省で「軍の作戦妨害」「現地の統制違反」などを問われ、支店長は禁固10年の刑を宣告される。

事件の実態は現地で中国人から家屋を借り上げる際、統制家賃では安すぎるので、家主に内々に物品を渡して埋め合わせをしたに過ぎないが、北支では商人の不正行為が度々起きたので、「一罰百戒」を狙い一番目立つ物産をスケープゴートにしたとされる。向井は飛行機で直ちに現地に赴き、謝罪した。向井は飛行機が大嫌いで戦後も一度も乗らなかったというが、この時ばかりは例外だった。同年、会長の向井をはじめ常務以上の旧三井物産役員は事件の責任を取って、全員辞職せざるを得なかった。同時に向井は総元方も退任し、三井を去った。

戦後は大蔵大臣に

戦後、向井は昭和20年(1945)に貿易庁長官に就任するも公職追放となるが、昭和27年(1952)には旧知の吉田茂首相の指名を受けて、第4次吉田内閣の大蔵大臣となる。政治は合わなかったようで在任期間は7カ月だった。

その後も日本工業倶楽部専務理事や東京倶楽部理事長を務め、昭和57年(1982)に98歳で死去した。

三井不動産の江戸英雄元社長は向井について次のように述べている。「向井氏は三井財閥最後の大物であった。物産首脳を兼ね、三井合名の改組という歴史的大事業を決断された。私は池田(成彬)・向井両氏が敗戦の際に三井におられたら事態は変わっていたのではないかと思い、お2人が三井を離れてしまったことを残念千万に思う」。

  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

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