三井史を彩る人々

三野村利左衛門
幕末の三井を救った男

執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井文庫

三野村利左衛門(1821~1877)

幕府御用金の減免に成功

佐幕か勤皇、どちらにつくか誰もが大局を見極めていた幕末、三井の窮状を救い、幕末維新期の「三井の大番頭」として活躍したのが一介の商人であった三野村利左衛門である。幕府御用金の減額から明治新政府への資金援助、呉服業の分離、三井銀行・旧三井物産の創設など三野村が三井に残した功績は計り知れない。

三野村の出自は正確な史料としては残ってはないが、本人の口述などによると、文政4年(1821)、出羽庄内藩水野家の家臣・関口彦右衛門為芳の3男として生まれたとされる。7歳の時に父が浪人、以来諸国を流浪し、苦難に満ちた少年時代を送った。父の死後は江戸に出て、深川の乾物問屋などを経て、幕末に名を残した勘定奉行・小栗上野介の下へ奉公。後に金平糖の行商で得た資金を元手に両替商を営む。

その頃、三井では度重なる莫大な幕府御用金(献金)の重圧に苦慮しており、御用金を減免・分割せねば経営が立ち行かないほどの状態だった。その金額は元治元年(1864)から慶応2年(1866)の3年間・5回で合計266万両にも及んだ。

三野村の機敏な仕事ぶりは出入りしていた三井両替店の主筋までその名が知られており、勘定奉行の小栗とも知己だったことから三野村は三井家と幕府との交渉役として抜擢される。

三野村は、元勘定組頭・小田信太郎を通じて小栗を説得、嘆願の末、御用金150万両を3分の1の50万両に減額し、さらに18万両に減らした上、3年にわたる分納という大成果を上げることに成功した。

このような交渉が成立した背景には、三井のような大商人に対し過度の御用金を課して弱らせるより、育成して末長く幕府経済の支柱にしようと考えたと思われる。その証拠にこの後、幕府は貿易関税収入の一部を商品担保貸し付けに回すという商務を三井に担当させている。

三井は大元方直属の幕府関係の御用金業務を一手に取り仕切る「三井御用所」を設置、三野村はそこの責任者となる。三井の佐幕から勤皇への方針転換にも大きな役割を果たした。

三井銀行の設立に尽力

時代は明治に移り、三野村は三井の近代金融業の発展に尽くす。その目的は「銀行」の設立であった。「為換座三井組」による貨幣制度改革など明治政府の金融政策面で支えた三井組は三野村の指揮の下、単独での銀行設立を狙うが、当時、大蔵省官僚であった渋沢栄一に反対され、明治6年(1873)、三井・小野両組合作による「第一国立銀行」を発足させる。

それでも三野村は単独設立をあきらめず、小野組が倒産を契機に第一国立銀行から手を引いた後の明治9年(1876)、遂に宿願であった日本初の民間銀行「三井銀行」を開業に導いた。

なお、「バンク」の「銀行」という訳語は渋沢の伝記によれば、「洋行」の「行」の一字に「金」を加え、「金行」とする渋沢の提案に、三野村が「交換(取り扱い)には銀も含む」と答え、「銀行」となったという。この2人の会話が現在の「銀行」の名称を決定したことになる。

「商社」構想も練っていた三野村は井上馨と益田孝が解散させた「先収会社」を引き取り、旧三井物産の創設にも携わった。後に旧三井物産は三井組で国内の諸物産販売を取り扱っていた「三井国産方」と合併した。

「無学の偉人」

だが、華々しい活躍とは裏腹に、三野村は病魔に侵され、三井銀行の開業式典にも出席できず、翌明治10年(1877)、57歳で病没する。

三野村は幼少時代、諸国を流浪したので、非識字者に近かったが、無学でありながらも時局の見通しは鋭く、行動力に富み、組織をまとめることのできる傑出した人物であった。三野村を「無学の偉人」と称した渋沢は彼を、「あのくらい学問もしないで、制度について不思議な才能を持っているひとはいない。そしてそれを説明するときに丸をいくつも書く。三野村のまるまると言ったら有名なものだった」と評している。

  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

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