三井史を彩る人々

琢磨
非業の死を遂げた三井合名理事長

執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井文庫

團琢磨(1858~1932)

不遇の鉱山技師時代

三池炭鉱の払い下げとともに三井が手に入れた人材が鉱山技師の團琢磨である。後に三井合名理事長となり、三井総領家第10代当主・三井八郎右衞門高棟とともに三井財閥を率いていくが、財閥巨頭を狙ったテロによる暗殺という悲劇で、その人生を終えることとなる。

團は安政5年(1858)、福岡藩士・神屋宅之丞の4男として生まれる。12歳で、同藩権大参事・團尚静の養子となり、明治4年(1871)、14歳の時に旧福岡藩主黒田家より海外留学生に選ばれ、渡米。出帆したこの船には、岩倉具視特命全権大使一行のほか、日本初の女子留学生、旧藩主らも乗船していた。

マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学んだ團は明治11年(1878)に7年間の留学生活を終え、帰国した。鉱山学の専門家であった團だが、工部省に採用されず、大阪専門学校で数学、東京帝国大学で天文学などを教えた。團と共に留学し、元老院の書記官となっていた親友で義兄の金子堅太郎は鉱山学の知識を生かすことを望んでいる團の不遇を案じ、工部省への出仕を口利きする。金子の斡旋が実り、團は明治17年(1884)に工部省三池鉱山局に入局、團は湧水問題を解決するため、欧米各国の視察を命じられる。

三池鉱山払い下げで三井へ

團が海外にいる頃、国内では三池鉱山は民間払い下げが決まり、明治21年(1888)、三井組が455万円で落札。ニューヨークでそれを知った團は、自分は失職したものと察し、福岡県の鉱山技師の内定を得る。

ところが、三池鉱山落札に尽力した旧三井物産社長・益田孝はこれに猛反対した。「團抜きで三池に455万円の価値はない。三池の落札価格には團の価値も入っている」と主張し、福岡県庁の2倍の給金で團を招聘した。

こうして、紆余曲折を経て三井入りした團は、新設された「三池炭鉱社」の事務長に就任。明治26年(1893)には三井鉱山合名会社が設立され、専務理事となる。

團は最新の排水ポンプによる湧水問題の解決や三池築港など鉱山事業で手腕を発揮。明治42年(1909)に三井財閥の持株会社・三井合名が設立されると参事に任命され、大正3年(1914)にはシーメンス事件を契機とした改組で三井合名理事長に就任。欧米視察で信頼関係を築いた三井合名社長の三井高棟とともに「名コンビ」と称された。

暗殺の標的に

こうして発展・拡大していった三井財閥も昭和に入ると、金融恐慌やファシズムの台頭により、世論の批判の矢面に立たされる。昭和6年(1931)の「ドル買い事件」はそれに拍車をかけ、政財界のトップが暗殺の標的となった。政界では犬養毅や若槻礼次郎、井上準之助、財界では池田成彬、團琢磨、岩崎小弥太、住友吉左衛門などである。

昭和7年(1932)2月、金解禁の責任者・井上準之助前蔵相が血盟団員・小沼正に暗殺されると、三井財閥にも緊張が走った。

しかし、團は護衛や防弾チョッキなどの自衛策を拒み、三井本館への出入りも裏口の「金門」ではなく、人通りの多い三越側を利用した。 同年3月5日午前11時25分、團の乗った車が三井本館南側・三越寄りの玄関前に着き、階段を上りかけたとき、一青年が横から割り込み、拳銃を團の左胸部に押し当て発射した。銃弾は團の心臓に命中、すぐさま医務室に運ばれ手当てを受けたがまもなく死亡した。享年75。

團の死後、三井財閥は三井高棟の引退や池田成彬の転向施策が取られるが、戦争へ歩み始めた時局の中ではどうすることもできなかった。

  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

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