三井史を彩る人々

池田成彬
財閥転向に努めた「清貧の人」

執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井文庫

池田成彬(1867~1950)

ハーバード卒の秀才

これまでの日銀総裁には民間出身の総裁は何名かいるが、純粋の都銀出身者ということでは数少ないうちの1人として、池田成彬が挙げられる。 池田は慶応3年(1867)に、山形県米沢市の米沢藩士・池田成章の長男として生まれる。明治21年(1888)、慶応大学を卒業後、渡米し、同28年(1895)にハーバード大学を卒業、同年三井銀行に入行した。後に池田は三井の重鎮で三井銀行副長・中上川彦次郎の女婿となる。

明治42年(1909)、三井財閥の持ち株会社・三井合名の発足に伴い、三井銀行は株式会社化し、その改組と同時に池田は常務取締役に就任する。以降の池田の手腕について、『三井銀行八十年史』には、「明治42年の組織改正から昭和8年に至るまで、足かけ25年の間、当行の経営を実質的に主宰したのは、池田成彬常務取締役であった。従って、この四半世紀の当行の歴史には、池田常務の銀行経営に対する意図と方針が、その中核を貫いて流れているのである」と記述されている。

「ドル買い事件」に対処

昭和2年(1927)の金融恐慌以後、三井銀行は国内での資金運用に悩み、融資を有利に消化するために投資市場を海外に求め、英国のポンド証券に多額の資金を放出した。折悪しく、国内では昭和5年(1930)、当時の浜口雄幸内閣が金輸出の解禁を断行。しかし、金解禁は事実上の経済失策だった。翌年には世界的にも金輸出再禁止の流れとなり、まずイギリスが金輸出禁止を発表した。実行されれば外貨為替は高騰し、円為替は急落する。このとき、三井銀行をはじめ各銀行は一斉にドルを買い、これにより、「ドル買いは国賊」というマスコミの攻撃が始まる。三井の「ドル買い事件」である。

輸出禁止直前まで横浜正金銀行が売った総額は当時の金額で7億6,000万円ともいわれ、三井銀行は2,135万ドル(4,324万円)のドルを買った。ただ、これはイギリスの金輸出禁止に伴い、三井銀行がロンドンに持っていた資金を凍結されるため、決済ができなくなるので、先物約定履行や電力外債利払いに備え、ドル買いを行っただけであった。池田は回顧録で「なんの変哲もない銀行の事務だと思っていた」と述べている。

財閥転向政策を進める

「ドル買い事件」により、世論の財閥批判は一層高まり、池田や三井合名理事長・團琢磨など財閥巨頭はテロの標的とされた。そして昭和7年(1932)、團は三井本館前で血盟団・菱沼五郎に暗殺された。

世論の風当たりに改革を迫られた三井合名は池田など新たな常務理事を迎え、財閥の転向を図った。

池田はまず、「役員は実際に働いている人を選任すべき」とし、三井直系会社の社長・会長に身を置く三井一族を引退させた。総領家当主である三井合名・三井八郎右衞門高公社長の理解を得ての勇断だった。また、国家報恩と大衆との共存共栄を念願し、公共事業に尽くすことを表明。3,000万円を拠出し、「財団法人三井報恩会」を設立した。当時の3,000万円は現在の数千億円にも匹敵する額で、失業対策や風水害対策、研究施設など多岐にわたって、寄付活動を行った。

さらに池田は昭和11年(1936)、三井直系各社に定年制を導入、68歳の池田本人もこの決定に従い、40年の三井生活を辞した。翌年、当時の蔵相であった結城豊太郎から誘われて第14代日銀総裁に就任。しかし、在任わずか5カ月半で病のため辞任することとなる。昭和13年(1938)の近衛文麿内閣では大蔵大臣兼商工大臣を務めた。三井銀行、三井合名の重職を担った池田だが、身辺は質素で、「成彬」ではなく「清貧」とも呼ばれ、引退後は所蔵する書画骨董を売って生計を立てていたほどだった。昭和25年(1950)、死去。享年83。

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