三井史を彩る人々

中上川彦次郎
三井の革命児

執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井文庫

中上川彦次郎(1854~1901)

福沢諭吉の甥として

明治期、それまで商業主義であった三井の工業化を推進したのが、中上川彦次郎である。その工業化路線は道半ばで挫折してしまったが、中上川が三井に残した人材や企業群はその後、三井財閥の発展に大いに寄与し、現在の三井グループの工業部門の一翼を担っている。

中上川は安政元年(1854)、豊前中津藩奥平家の藩士・中上川才蔵の長男として生まれた。母親の4歳下の弟は、慶応大学の創始者・福沢諭吉である。叔父・福沢に憧れ洋学に関心を持った中上川は、14歳の時に故郷を離れ、大阪で英語を習い、慶応大学に入学。 卒業後は福沢の力によりロンドンへの留学が実現し、20歳から 23歳までをロンドンで過ごした。この留学中、中上川は海外視察に訪れていた井上馨と出会う。

帰国後は工部省、外務省を経て福沢が創刊した「時事新報」の社長に就任。明治20年(1887)には山陽鉄道の社長となり、日本で初めて新聞への広告掲載や「車掌」という言葉を考案したのも中上川であった。

三井の大改革に着手

ちょうどその頃、三井では銀行業が不振を極め、経営再建が叫ばれていた。偶然にも移動中の列車内で久闊の挨拶を交わした井上と中上川の話は盛り上がり、これがきっかけで井上から三井入りを懇請された中上川はこれを承諾する。中上川の思い切った経営方針は山陽鉄道内で株主の反感を買い、社長から格下げされていた。

こうして明治24年(1891)、井上の推挙により、中上川は三井銀行・旧三井物産・三井鉱山の各理事、三井呉服店調査委員、大元方参事という三井の要職に就き、翌明治25年(1892)、39歳で三井銀行の副長となる。

中上川はまず、慶応大学出身の新聞記者など有能な人材を採用した。当時の三井銀行の幹部職員は、三井組時代からの手代たちで、人材の交替を図った。集められた人たちは、朝吹英二、波多野承五郎、柳荘太郎、日比翁助、藤山雷太、武藤山治、池田成彬、藤原銀次郎などで、三井銀行のみならず、その後の三井各社、そして日本の産業界をリードした人物が名を連ねていた。中上川は、適材適所に人を配し、実力主義に徹して優秀な人物には驚くほどの高給を支払った。

また、中上川の実力は、不良貸金の整理で思う存分発揮された。最初に行われたのが、東本願寺への100 万円(約50億円)の貸金回収だった。本山所有の動・不動産は実際には抵当登記が行われていなかったので、中上川は抵当登記を行い、返済できない場合は所有物を競売することを迫った。これに慌てた本願寺は中上川を「信長以来の仏敵」と抗議したが、結果的に180万円もの寄付を集めて三井銀行に返済し、手元に80万円残ったので中上川は逆に感謝されたという。

中上川は困難を乗り越え、次々と不良貸付を回収。また、官金取扱業務は三井銀行の近代化を阻むものであると考え、この業務からの脱却を行った。

さらに旧三井物産の益田孝が三井の商業化を進めたのに対し、中上川は、三井の工業化を推進、不良債権整理の過程で芝浦製作所、鐘ヶ淵紡績、王子製紙、北海道炭鉱鉄道など、いくつもの工業企業を三井の傘下に収めた。

反対勢力との闘争に敗れる

着々と成果を上げていった中上川の改革だが、やがてその手が旧三井物産に及ぶと益田孝ら反対勢力との対立が激化する。加えて、中上川を招いた井上も想像以上に厳しい中上川のやり方に反感を持つようになった。相談もせず、独断専行が目立った中上川は井上の勘気を買い、三井内で四面楚歌の状態となる。結果、闘争に敗れた中上川も体を壊し、2年間の闘病の末、明治34年(1901)、48歳の若さでその生涯を終えた。

中上川の独断専行型の改革は多くの軋轢を生んだが、三井の近代化・工業化を図った功績は、後々も受け継がれ、三井財閥飛躍の原動力となったのである。

  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

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