三井史を彩る人々

馬越恭平
東洋のビール王

執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井文庫

馬越恭平(1844~1933)

益田孝との出会い

戦前、国内のビールシェア7割を超える「大日本麦酒」社長に君臨し、「東洋のビール王」と称された馬越恭平。旧三井物産創立からの古参社員であった馬越だが、日本麦酒への出向を機にビール業界再編を主導していくこととなる。

馬越は弘化元年(1844)、岡山県で生まれた。生家は4代にわたって医者であったが、安政3年(1856)、大阪に出て当時の豪商・鴻池家の丁稚として実業家人生の第一歩を歩み始める。

当時、25歳の益田孝が大阪に商用で来た時、馬越の兄の紹介で播磨屋に泊り、そこで馬越と初めて出会ったと伝えられている。益田は播磨屋に滞在中、馬越の商才、胆力などを見抜き、親しく欧州諸国の事情や東京実業界の現状などを話したという。また益田は、当時愛読していた『西国立志編』を読むように勧めた。馬越は後に、「私が今日あるのは、『西国立志編』の賜である」と語ったという。

馬越はその後、益田に頼み込み明治6年(1873)、上京して先収会社に入社、同社の解散を経て新たに設立された旧三井物産社員となる。 馬越は西南戦争の食糧調達で莫大な利益を上げ、社内で出世の階段を登って行く。

ビール大手3社を経営統合

明治24年(1891)、「恵比寿ビール」のブランドを持つ日本麦酒の大株主である旧三井物産は悪化する同社の経営再建を専務である馬越に託す。このとき48歳。馬越は日本初のビヤホール「恵比寿ビヤホール」の開業やブランド名を冠した「恵比寿停車場」(現JR山手線恵比寿駅)を開設。日本麦酒は徐々に経営を立て直していく。だが、ビール業界の競争は激化し、戦国時代の様相を呈していた。この窮状を打開すべく札幌・日本・大阪の3社大合同を終始主導したのが馬越であった。奇しくも同時期に日露戦争が開戦し、大国ロシアとの総力戦の最中に無益な競争はすべきでないという意見にまとまり、3社は基本路線で合意。明治39年(1906)に3大ビール会社の大合同は成立し、馬越は大日本麦酒社長に就任する。

「東洋のビール王」に

旧3社の商標「サッポロ」「ヱビス」「アサヒ」を引き継ぎ、従来通りの銘柄で特約店に供給を始めた大日本麦酒は独占に近い70%以上のシェアを確保し、馬越は昭和8年(1933)に88歳で死去するまで約30年間社長を務め「東洋のビール王」と称されるまでになった。

しかし、馬越が育て上げた大日本麦酒も戦後はGHQの「過度経済力集中排除法」よりサッポロビールとアサヒビールの2社に分割された。「ヱビスビール」の商標はサッポロビールに受け継がれている。

  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

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