三井の歴史 [大正・戦前期]

戦時下の三井財閥

執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井文庫

昭和12年(1937)、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発、戦時体制が進むにつれ、政府・軍部の財閥に対する処分も苛烈さを増していった。中でも軍備拡張や戦費調達による増税は相当なもので、財閥家族の個人所得については6割が徴収され、日中戦争後は支那事変特別税としてさらに増徴された。

法人税の重圧も同様で、臨時増徴法で倍額に引き上げられた。三井家一族を特に苦しめたのが相続税である。当時の未納額は三井11家で4,000万円以上に上り、三井合名が所有する株式を売却してもそれにかかる所得税など諸々の課税を含めると納税ができるのはごく一部で、到底及ばなかった。

山西事件で引責辞任した三井総元方理事長・向井忠晴

各財閥は従来の閉鎖的な合資・合名会社では対応できず、組織を株式会社に改組し、株の公開、または社債の発行によって金融対策を講じなければ立ち行かなくなっていた。

そして昭和15年(1940)、三井合名の改組が実施される。それは傘下会社である旧三井物産が三井合名を吸収合併するという苦肉の策だった。一度解散した上で新株式会社設立という案もあったが、それでは含み資産のほとんどが課税されてしまうため、課税率緩和のためにも子会社と合併の道を選んだのである。新会社は株式の4分の1を公開し、会長に向井忠晴(後の大蔵大臣)、常務に石田礼助(後の国鉄総裁)が就任した。旧三井物産は当時、社長を置かない会長制であった。

しかし、この新会社は三井合名から引き継いだ膨大な持株部門と旧三井物産本来の業務である商事部門を併せ持つ上、これまで合名傘下だった子会社が旧三井物産傘下に列せられるという一見、奇妙な組織体系である。

そこで同年、事業統括機関として資産も法人格も持たない「三井総元方」を設置。議長は三井総領家第11代当主・三井八郎右衞門高公、専務理事(後に理事長)は旧三井物産会長の向井が就任した。三井総元方はかつて三井越後屋での統括機関「大元方」に倣ったもので、三井各社の最高人事、株主総会、融資などを理事会で決定、実質的な統帥権を担った。

三井総元方が最初に取り組んだのが三井不動産の設立である。それまで三井家固有の土地を管理していた三井合名不動産課も旧三井物産と合併したため、株式公開に先立ち、不動産を買い戻す必要に迫られたからである。こうして三井の土地を管理する三井不動産が昭和16年(1941)に設立された。

直系・準直系会社を指定

戦時経済が加速する中で、金融機関も軍需資金調達の対応に追われていた。戦時非常金融対策実施要領など銀行業の国家統制策が進む中、三井銀行・万代順四郎会長は国内銀行の結束を主張。三井銀行と第一銀行の合併工作を進め、昭和18年(1943)、万代を頭取とする日本最大の銀行・帝国銀行が誕生した。

一方、同年、軍部の対応に苦慮する旧三井物産を揺るがす大事件が起きた。「山西事件」である。旧三井物産は中国山西省で現地中国人から家屋を借り上げる際、統制家賃では安すぎるので、家主に内々に物品を渡して埋め合わせをしていたが、北支では商人の不正行為が度々起きたので、軍部は一罰百戒を狙い、一番目立つ旧三井物産がスケープゴートにされた。旧三井物産は「軍の作戦妨害」「現地の統制違反」などを問われ、向井会長が飛行機で現地に赴き謝罪。向井をはじめ常務以上の役員は事件の責任を取って、全員辞職せざるを得ず、向井は総元方理事長も退任。引責という形で三井を去って行った。

この事件を契機とし、三井に対する世論が一層厳しくなり、旧三井物産を中心機関とする企業活動が困難となった。このため、旧三井物産を商事部門、工業部門を分離して、残りの持株会社としての資産に三井総元方の統轄機構を併せ、昭和19年(1944)、三井八郎右衞門高公を社長とする「三井本社」が設立された。三井本社は事業体系を明確化するとともに、直系会社を増やし、直系10社と新たに準直系12社を指定した。

直系会社
(10社)
旧三井物産、三井鉱山、三井信託、三井生命保険、三井化学、三井不動産、三井船舶、三井農林、三井造船、三井精機工業
準直系会社
(12社)
日本製粉、三井倉庫、大正海上火災保険、熱帯産業、東洋棉花、三機工業、東洋レーヨン、東洋高圧、三井油脂、三井軽金属、三井木材工業、三井木船建造

軍部からの重圧や、重税対策などによる度重なる改組など、戦時中苦汁をなめ続けた三井財閥だが、昭和20年(1945)8月のポツダム宣言受諾により、ようやく解放され、平和産業での戦後復興を目指していた。

しかし、そこに待っていたのはGHQによる財閥解体というさらなる試練であった。

  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

大正・戦前期について