三井の歴史 [大正・戦前期]

三井の迎賓館・
綱町三井倶楽部

執筆・監修:三友新聞社

大正時代に三井財閥が残した名建築のひとつが、東京都港区三田に現存する「綱町三井倶楽部」である。日本初ともいわれる本格的な迎賓館は三井グループの賓客接待所として、今もその役割を果たしている。

東京・三田に佇む三井の迎賓館・綱町三井倶楽部

この地は酒呑童子などの鬼退治で有名な平安時代の武将、渡辺綱が産湯をつかったという井戸が敷地内を含め数カ所あり、「綱」という地名はここから由来している。約100年の歴史を刻む、かつての綱町三井別邸、現在の綱町三井倶楽部が着工されたのは明治43年(1910)。前年には三井財閥の中心たる持株会社・三井合名会社が設立されており、かねてから賓客接待用施設の必要性を感じていた三井総領家第10代当主・三井八郎右衞門高棟は三田に約6,000坪の用地を確保し、建設に取りかかった。設計者は鹿鳴館やニコライ聖堂などを手掛けたイギリス人建築家のジョサイア・コンドル。建設工事はおよそ4年の歳月をかけ、三井家の迎賓館・綱町三井別邸は大正2年(1913)12月に竣工した。

本館は煉瓦石混造スレート葺き地階付き2階建てで、そのルネサンス様式の外観は偉容を誇る。館内はサロン・舞踏室など23の部屋から構成されており、建築材料は国外から最高級品を調達。大理石はイタリア、シャンデリアはフランス、窓ガラスはベルギーなど各国から厳選され、さらに館内にはロダンの彫刻やヴィクトリア女王の肖像画など、名品の数々も展示された。

現在も賓客接待が行われる大食堂

ベランダの先には、広大な和洋併立の庭園が広がっている。この庭園は隣接地の追加取得に伴い造園されたもので、大正8年(1919)に着工され、大正11年(1922)に完成。綱町三井別邸の敷地面積は最終的に1万坪まで拡大した。ベランダに面している高台の土地にある英国風庭園は建物同様コンドルの設計によるもので、庭の中央にはルネサンス様式の大盃型噴水が配置されている。さらに南側奥の斜面を下って行くと、築山林泉回遊式の見事な日本庭園が広がっている。

大正12年(1923)、関東一円は巨大地震に見舞われ、綱町三井別邸も被害を受け損傷したが、幸いにも倒壊は免れ、昭和4年(1929)に改修工事が完了。復旧後、再び華やかな饗応が開始されたが、しかしそうした日々が続くのも、昭和16年(1941)までであった。太平洋戦争の勃発とともに邸内は軍の慰問品を袋詰めする作業場となり、また軍令部の使用するところとなった。終戦後はGHQに接収され、昭和27年(1952)まで米軍将校クラブとして使用されることとなる。

英国風庭園の先には築山林泉回遊式の見事な日本庭園が広がっている

GHQの接収が昭和28年(1953)に解除された後、返還された施設を今後どのように使用するか、関係者で話し合われた結果、再び三井各社が共同で使える接待所にしようという案がまとまり、綱町三井別邸は三井グループ企業による会員制クラブ「綱町三井倶楽部」として再発足した。

戦後は昭和天皇をはじめ、皇族や歴代総理大臣、外国の賓客まで様々な著名人が訪れた。現在も三井グループ各社役員の集う年賀会や叙勲・褒章受章者祝賀会、三井系社員・家族を対象としたブライダルなどが行われており、グループの迎賓館として今日まで愛され続けている。

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