三井の歴史 [戦後期]

三井財閥最後の日

執筆・監修:三友新聞社

昭和20年(1945)8月15日、ポツダム宣言の受諾により、太平洋戦争は終結した。戦時下は軍部や右翼勢力から圧力をかけ続けられた三井財閥である。戦後復興に向けて意欲を燃やしていた。

そのために資本金1億円の三井復興事業の設立も企画しており、米100万石・塩20万tの増産や住宅20万戸の建設を予定していた。三井本社総務部次長であった江戸英雄(後の三井不動産社長)は、「国を復興・再建する平和産業は三井が得手とするところだ」と当時の心境を述懐している。その三井にとっては財閥解体など全くの予想外であった。連合軍総司令部・GHQは昭和20年9月22日に「占領初期の対日方針」を発表、三井・三菱・住友・安田の四大財閥の解体を明示した。

これに驚いた三井側では、三井本社の筆頭常務理事・住井辰男らがGHQの担当者である経済科学局長・クレーマー大佐と三田の綱町三井別邸で会談、誤った財閥観を是正しようと懸命に説得した。三井側は、山西省事件など三井と軍部は対立関係にあったこと、三井は軍需産業ではなく、商業など平和産業を中心にしてきたこと、財閥の経済力は日本の戦後復興に必ず役立つことなどを力説したが、クレーマー大佐は「日本が国力に比して分不相応な力を持っているのが海軍と財閥である。この2つは今後、戦争を導き誘う力を持っている」とし、財閥解体の方針を曲げなかった。GHQは、四大財閥の中で最も巨大な三井財閥を最初に解体すれば、他の財閥も倣って従うという考えだった。

三井側はそれでも粘り、三井一族及び最高幹部を引退させ、三井本社の株式を公開するなどの妥協案を提示したが、「財閥解体はポツダム宣言の3カ月前から決定している。君たちはいわば判決の決まった裁判所で、なお弁論をやっているようなものだ」と一蹴された。

かくて、三井財閥最後の日が訪れた。昭和20年11月8日、従業員500名以上が揃った三井本社で、社長の三井八郎右衞門高公が別れの挨拶をし、同年12月、全役員が退任。昭和21年(1946)9月30日の株主総会の決議により、三井本社は正式に解散し、清算会社となった。ここに三井高利が越後屋呉服店を開業した延宝元年(1673)以来、273年続いた三井の歴史は幕を閉じたのである。なお、三井本社の清算会社は昭和31年(1956)、三井不動産に吸収合併された。

傘下各社も次々に解体

財閥解体に始まるGHQの改革の嵐は三井家や三井系各社にも次々に及んだ。三井一族は終戦後の動乱期に全財産を凍結され、9割を財産税で没収。資産の大部分を占める株式を一方的に処分された。その上、一切の企業役員からも追放されたため、無収入状態が続いたので、その財産力は想像を絶するほど低下した。江戸元三井不動産社長は自著の中で、「その取り扱いの無慈悲で過酷なことは戦犯以上であった」と書き残している。

三井本社の解散とともに、財閥傘下各社の株式も解放された。当時の三井財閥傘下会社は約270社。このうち三井本社が指定した直系会社は10社、準直系会社は12社あり、三井本社を加えた23社が終戦時に持っていた資産は約72億8,000万円と推定される。これが全て持株会社整理委員会の手で処理された。昭和21年(1946)には公職追放が始まり、経済界では資本金1億円以上の会社役員および財閥直系・準直系の常務以上のものは全員、追放の対象となった。

続いて昭和22年(1947)7月、財閥解体の一環として突如、旧三井物産と三菱商事に解散命令が下る。その内容は、(1)部長職以上のものは2人以上1つの会社に属してはならない、(2)旧三井物産社員が100人以上集まり、会社を興してはならない、(3)旧三井物産の建物は新会社で使用してはならない、(4)いかなる新会社も「三井物産」の社名を冠してはならない、という厳しいものだった。三井本社は別として個別の傘下会社を狙い撃ちにしたこの解散指令は晴天の霹靂で、散り散りになった社員たちは集まっては零細会社を設立し、その数は200社以上とされる。

さらに同年12月には巨大企業の分割を目的とした「過度経済力集中排除法」が施行され、三井系では王子製紙、三井鉱山、東京芝浦電気、大日本麦酒などが分割の対象となった。

王子製紙は苫小牧製紙、十条製紙、本州製紙の3社、大日本麦酒は日本麦酒、朝日麦酒の2社に分割、三井鉱山は石炭・金属の「金・石分離」を行い、金属部門は神岡鉱業となる。

集中排除法により分割された三井系各社は戦後、変遷を遂げながら、王子製紙、日本製紙、三井金属鉱業、東芝、サッポロホールディングスなどとなり、現在の三井グループ企業に至っている。

ちなみに、三井銀行と第一銀行の合併により昭和18年(1943)に発足した帝国銀行は三井財閥から直系・準直系に指定されておらず、GHQも金融機関を分割の対象にするか決めかねていた。そこで帝国銀行は分割を見越して昭和23年(1948)、両行を帝国銀行(旧三井銀行)と第一銀行に再び分離させた。これは、GHQの銀行分割を予想しただけでなく、両行は経営方針や理念が異なっており、旧第一銀行行員からの強い要望によるものだった。帝国銀行が三井銀行の商号に戻るのは占領が解けた独立後の昭和29年(1954)のことである。

  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

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