三井の歴史 [戦後期]

三井物産の大合同

執筆・監修:三友新聞社

戦後の三井グループ再結集における最大の懸案は三井物産の大合同だった。昭和22年(1947)の解散以来、旧三井物産社員が興した会社は200社以上にも及んだが、「三井物産」の商号は依然として使えなかった。

転機となったのは占領が解けた昭和27年(1952)。GHQの解散指令が解除され、財閥の商号・商号使用禁止令も廃止となり、三井物産を再び名乗ることが可能となったのである。この頃、三井物産系では第一物産、第一通商、室町物産、日本機械貿易の4社が頭角を現していた。三菱商事は昭和29年(1954)に復活を果たしており、三井系各社からも三井物産大合同を望む声が高まっていた。

合併調印式で握手を交わす第一物産・新関社長(左)と三井物産・平島社長(右)(画像提供:三井物産)

昭和27年、山西事件で引責辞任した元旧三井物産会長・向井忠晴の取りまとめの下、旧三井物産系14社の社長が集まり、大合同への道筋を話し合った。その結果、「三井物産」の商号は大合同実現の暁まで14社のうち、日東倉庫建物に一時的に預けることで合意した。

ところがその直後、日東倉庫建物は突如、「三井物産」に商号を変更、翌年、有力4社のうちの1つ、室町物産と合併してしまったのである。室町物産の狙いは「三井物産」の商号だった。約束を反故にされた関係者が激怒したのは言うまでもない。三井銀行が4社合併案を提示したがまとまらず、先に残った3社を合同させることを優先させ、第一物産の名で3社が合併した。発足当時、第一物産の取扱高は国内最大であった。

第一物産と三井物産の溝は深まる一方となり、世間では向井忠晴と石田礼助の派閥闘争が原因とも噂され、また、ライバルの三菱商事と比較され、一枚岩の「組織の三菱」に対し、自由主義を掲げる「人の三井」の弱点とも言われた。

大合同調印を報じる「三友新聞」(昭和33年8月6日)

こうした状況に、三井グループ各社首脳陣や長老も加わり第一物産と三井物産を合併させるべく、説得を重ねた。そして昭和33年(1958)、三井系主要12社の社長は「合併が実現すれば、三井系各社は新しい三井物産を全面的に支援する」との最終案を提示し、同年8月、第一物産・新関八洲太郎社長と三井物産・平島俊朗社長の間で合併調印が交わされ、翌年、1対1の対等合併による新生「三井物産」が誕生した。GHQの解散指令から12年、三菱商事の大合同に遅れること4年の月日が流れていた。

  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

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