三井の歴史 [現代期]

活発化する
グループ共同事業

執筆・監修:三友新聞社

三井物産の大合同を契機に三井グループでは社長会「二木会」ができるなどグループはかつての繋がりを取り戻していく。昭和36年(1961)には三井グループのPR活動などを目的に8社が集まり「三広会」が設立される。同年、三井物産が番組スポンサーであった「兼高かおる世界の旅」が三広会の共同提供となった。この番組提供は三広会から三井広報委員会へと引き継がれ、16年にわたって続けられた。

「東洋一の高さを誇る高層建築病院」として話題となった三井記念病院新病棟

さらに昭和40年(1965)、三井家史料の収集や調査などを行う研究機関「財団法人三井文庫」が三井グループ各社の協力を得て正式に設立された。三井文庫は明治から「三井家編纂室」として三井家の修史事業を行ってきたが、戦時中の空襲や終戦後の財閥解体の影響で活動を休止していた。

昭和40年代、三井グループが一体となった一大イベントのひとつが、昭和45年(1970)にアジアで初めて開かれた大阪万博である。三井グループ32社が出資し、約20億円をかけてパビリオン「三井グループ館」を出展。隣接する「東芝・IHI館」とともに「三井ゾーン」を形成した。

つくば万博「滝の劇場・三井館」。2つの円錐は三井の「M」をイメージしている

三井グループは大阪万博以降も、昭和50年(1975)の沖縄海洋博で「三井こども科学館」、昭和60年(1985)のつくば万博で「滝の劇場・三井館」、平成2年(1990)の花の万博で「三井・東芝館」、平成17年(2005)の「愛・地球博」で「三井・東芝館」を出展。国内で開催される万博に全て参加し、日本有数の企業集団として存在感を高めている。

また、昭和45年、三井不動産・江戸英雄社長の主導の下、三井グループ各社の出資を受け、三井記念病院の新病棟が完成する。三井記念病院は明治42年(1909)に三井家の寄付により開院した「三井慈善病院」を始まりとし、困窮者への慈善治療などを行っていたが、東京大空襲で建物が全焼。以来、三井グループ各社の支援の下、段階的な増築により診療対応していたが、最新医療設備を備えた新病棟に生まれ変わった。新病院は「東洋一の高さを誇る高層建築病院」と言われ、話題を集めた。

昭和47年(1972)には三広会が発展的解消を遂げ、新たに三井グループ31社が加盟する「三井広報委員会」が新発足した。

こうしたグループ共同で活動を続ける三井各社にも昭和40年代後半から徐々に不況の波が押し寄せてくる。昭和48年(1973)、第一次オイルショックが発生、深刻化した不況は昭和50年代に入っても出口が見えず、民間企業では事態打開のため、国際競争力の強化や新分野への取り組みが喫緊の課題として叫ばれていた。特にエネルギー需給問題は国策として議論を深め、二木会でも三井各社共同による研究活動が求められていた。これを受け、三井グループのシンクタンク設立案が本格的に練られ、検討会を重ねた結果、昭和53年(1978)、二木会の下部機構として「三井業際問題研究所」が設立、後に「三井業際研究所」と改称する。

ちなみに、「業際」という言葉は当時の三井造船・山下勇社長が発案した新語で、「異なる事業分野にまたがる」という意味で今日では一般にも広く使われている。

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