三井の歴史 [戦後期]

三井グループの再結集

執筆・監修:三友新聞社

戦後、三井の再結集に尽力した三井不動産・江戸社長

財閥解体で分断され、関係の薄れた三井系各社は、首脳陣も追放され、後任の取締役たちは他社役員との面識も薄かった。折しも三井・三菱・住友の3グループはGHQより発せられた「財閥商号商標の使用禁止」に関する政令に対し護持運動を展開しており、これに関する会合を母体として昭和25年(1950)に19社で発足したのが三井グループ各社の親睦会「月曜会」である。命名は発足日の昭和25年2月27日が月曜日だったことに由来し、会合は現在も主に月曜日に行われている。加盟会社の常務以上を会員資格とし、加盟には資本金や従業員数、月曜会会員会社の持株比率、推薦会社の有無などの基準を満たしていることが要件とされる。

月曜会を中心に、戦後の三井グループの再結集は加速していく。占領解放後の昭和28年(1953)には三井不動産・江戸英雄常務(後の社長)や三井建設・星野靖之助社長などにより、三井グループ各社を横断したグループ紙「三友新聞」が発行される。一方、商号・商標護持運動からは「三井商号商標保全会」が誕生した。

また、月曜会発足直後は各社社長が伊東・箱根でゴルフを催す「伊根会」ができるなど社長間の懇親会も増え、正式な社長会合の発足が望まれた。

「三友新聞」創刊号1面(昭和28年4月3日)

そして昭和34年(1954)の三井物産の大合同を契機とし、2年後の昭和36年(1961)10月12日、三井グループ18社からなる社長会が正式に発足。毎月第2木曜日に集まることから「二木会」と命名された。二木会は後に三井不動産、三井銀行、三井物産の3社を幹事会社として運営され、エネルギー革命により斜陽化した三井鉱山に代わり、三井本社を吸収合併した三井不動産が「三井の御三家」に列せられた。

二木会では、毎月の会合以外にも三井家の菩提寺・真如堂(京都市)で行われる物故社員慰霊法要などもあり、綱町三井倶楽部で開催される「新年互礼会」「叙勲・褒章受章者祝賀会」は二木会・月曜会合同で行われ、毎年、社長・会長を含む三井グループ役員が数百人集まる盛大な会となっている。

月曜会・二木会は三井系企業の指導機関のように思われるが、いずれも懇親会・勉強会を目的とする情報交換やグループ内の面識を得る場であり、グループ全体の意思決定機関ではない。

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