三井の歴史 [戦後期]

商標・商号護持の戦い

執筆・監修:三友新聞社

苛烈な占領政策が進む中、またしても旧財閥関係者を揺るがす大事件が起きる。昭和24年(1949)、GHQは三井・三菱・住友系の各社に対し、旧財閥の商号・商標の使用禁止命令を発令。三井・三菱・住友を冠する各社の商号と、三井の「丸に井桁三」、三菱の「スリーダイヤ」、住友の「井桁」の商標は、新商号・商標との併用期間をおいて昭和26年7月以降、完全廃止するよう通達された。この命令に三井系各社の社長・取締役は対策を協議、住友・三菱の旧財閥もこれに協力し、水面下で禁止令の撤廃工作を続けた。

使用禁止の対象とされた3大財閥の商号・商標

このとき、商号変更の対象として挙げられた企業は三井15社、三菱19社、住友10社で、三井の内訳は三井化学工業、三井船舶、三井造船、三井倉庫、三井不動産、三井生命保険、三井信託などであった。このうち、数社は禁止令の公布を受け、三井生命保険は中央生命保険、三井信託は東京信託銀行、三井農林は日東農林とするなど商号変更の手続きを進めていた。

昭和25年(1950)に3グループ共同でマッカーサー司令宛に提出された陳情書には禁止令撤廃の理由として、「商号・標章の禁止・変更による損害は莫大で、外国貿易上にも著しい障害となり、その損害は一般民衆の負担になる」などが述べられている。このほかにも三井不動産・江戸英雄取締役(後の社長)など各社役員が吉田茂首相に窮状を訴え、懸案についてマッカーサーと直接交渉を要請するなど働きかけた。

このような動きが奏功し、GHQは完全廃止の1年延期を決定。昭和26年(1951)には、実施の決定権を日本政府に委ね、これを受けて日本政府は実施をさらに1年延期させた。そして昭和27年(1952)のサンフランシスコ講和条約発効に伴い財閥商号の使用禁止等に関する政令は遂に廃止されたのである。商号・商標問題で3グループが支出した資金の総計は1億円以上に上るという。

以降、社名を変更しつつあった各社は次々と三井の商号へ復帰。昭和31年(1951)には、三井の商号・商標を管理する「三井商号商標保全会」が組織され、厳格な規定を設け、「三井」の濫用を防いでいる。

もしこの抵抗運動がなかったならば、三井・三菱・住友という名前も、丸に井桁三、スリーダイヤ、井桁の商標も消え去っていた。日本橋の三井本館にはこの事件解決の後、エレベーターのひとつに三菱電機製が入っていた。「なぜ三井系の東洋オーチス製でないのか」と問われた当時の江戸社長は「これは社名商標護持のため、三井・三菱・住友三者共闘の記念塔である」と語ったという。

こうして守られた三井の商号・商標は現在も変遷を遂げながら三井グループ各社へ受け継がれている。

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