三井ヒストリー

仕事を通じた社会奉仕

100年を迎えた三井の信託事業

日本で「信託法」と「信託業法」が施行されたのは大正12年(1923)のこと。その翌年、同法に基づく最初の信託会社として、三井信託株式会社(現在の三井住友信託銀行)が設立された。株主には三井のみならず、三菱財閥や安田財閥、住友財閥、個人では経済界の一流名士が含まれ、当時の三井による信託事業に対する期待の高さがうかがえる。2024年はそれからちょうど100年目。この機会に三井の信託事業の足跡をたどってみることにしよう。

信託事業とは何か?

「信託」とは、文字通り「信じて、託す」こと。委託者(自分、依頼者)、受託者(信託銀行等)、受益者(自分あるいは委託者が指定した人)の3者からなる制度で、委託者は受託者に財産を託し、受託者は信託契約によって定められた目的に沿って財産を管理・運用する。そして、そこから生まれた利益を受益者に交付するのが信託事業の流れとなる(図参照)。

信託の目的はさまざまだが、自分の子どもや子孫に財産を継がせる「資産継承」、自分自身が利益を受ける「個人信託」、医療や研究費、教育費などに使う社会奉仕を目的とする「公益信託」などがある。信託をすると、受益者は信託財産の運用・管理から生じる利益を受け取る権利を得、これを「信託受益権」という。

信託の場合、委託者の財産の所有権は受託者に移転することになり、ここが単に財産を預ける銀行預金などとは異なっている。そのため、信託法や信託業法などに基づいて、受託者にはさまざまな義務が課せられている。信託財産は受益者のための財産として、受託者は安全に管理・運用する大きな責任を負っているのである。

実は信託の歴史はかなり古く、古代エジプト、あるいはローマ時代にもその概念はあったといわれる。日本においても、鎌倉時代以降に行われた金銭の融通を目的とする民間互助組織の「頼母子講」などは、類似の慣習といえよう。また、寛政の改革の際に松平定信によって設置された「七分積金」、明治以降に七分積金の救貧事業を受け継いだ渋沢栄一による「営善会議所」も、現在の信託の考えに近い活動だったのではないだろうか。

信託会社の乱立による弊害

三井信託株式会社の創立に至る経緯で尽力したのは、大正12年(1923)まで三井銀行常務を務めていた米山梅吉(*1)であった。米山は慶應4年(1868)に士族の3男に生まれ、長じると米国の大学で8年間働きながら学んだ。帰国後は一時ジャーナリストを目指したが、三井最高顧問の井上馨との縁で明治30年(1897)に三井銀行に入行。以後頭角を現し、やがて池田成彬(*2)とともに三井銀行の経営にあたった。

米山は生来社会奉仕の精神にあふれ、大正9年(1920)10月には「私心なき奉仕」を標語とするロータリークラブを日本に導入して初代会長に就任している。そのような人物であるが故に、公益性の高い信託事業にも大きな関心を寄せていた。米山は政府の特派財政経済委員として渡米すると、その際に米国の信託会社を調査。また、英米訪問の日本実業団に参加し、米国の信託業についてより深く知ると、日本にもその必要性を強く感じるようになっていった。

とはいえ、近代化途上の日本にそれまで信託会社がなかったわけではない。三井は、三井信託創立から遡ること17年前の明治39年(1906)に、三井家の不動産管理を主な業務とする「東京信託株式会社」を設立し、注目されている。また日露戦争が終わり、第一次世界大戦以降の好景気で信託会社を名乗る業者も多く出現し、大正10年末には全国で488社もあったという。

ただ、当時は信託業に関する共通の概念がほとんどなく、根拠となる法規も整備されていなかった。そのため弊害も多く、日本銀行の調査によれば「信託会社ノ営業振ハ不真面目ニシテ曖昧ナルモノル多シ」などと報告されている。

特に、社名に「信託」を謳いながらも実質的には金融業であったことが多く、これが政府に信託法制の整備を急がせた理由のひとつでもあった。

三井信託株式会社の発足

そうして「信託法」と「信託業法」が制定されたのは大正11年(1922)4月。翌12年1月に施行され、これによって信託の概念が明確となり、日本における信託制度の健全な発展の道が開かれることとなった。同年8月、信託二法の施行を機に米山は三井銀行を辞し、新しい信託会社の設立に専心していく。

ところが、直後の9月1日に関東大震災が発生し、計画は一時中断を余儀なくされてしまったのである。それでも被災状況を目の当たりにした米山は、「このようなときにこそ財産管理を使命とする信託会社が必要なのではないか」と、より強い設立の意思を持つに至る。

米山は、三井合名会社理事長の團琢磨や三井銀行筆頭常務の池田らの強力な支援を受け、同年12月8日の三井合名会社理事会で新事業の計画は確定した。大正13年(1924)3月25日、日本工業倶楽部で創立総会が開かれ、三井合名会社の直系として、資本金3千万円の三井信託株式会社が発足したのである。

三井信託は大正13年の設立時には、三井合名会社が所有する日比谷の仮事務所で開業したが、昭和4年(1929)に日本橋の三井本館に移転。現在は三井住友信託銀行日本橋営業部の拠点となっている(三井住友信託銀行提供)

米山の新しい信託会社の構想は信託業務の公益性に鑑み、「三井の枠に囚われず全財界の協力と総力を結集して普及を図るべき」というものであったが、新事業は三井合名会社が主導する三井の事業として開始。それでも米山は当初の自分の構想を貫き、三井以外の財閥や企業にも呼びかけて出資を募り、発起人には財界各方面の有力者を網羅し、公共性の高い会社としてスタートした。

発起人の一例を挙げれば、三菱財閥から東京海上火災保険取締役社長の各務鎌吉(1万株)、安田財閥からは共済生命保険取締役社長の安田善四郎(5千株)らがいる。また発起人ではないが、安田に続く大株主として住友合資会社(3千株)も名を連ねた。筆頭株主は三井合名会社社長の三井八郎右衞門で、引受株数は14万株。役員の構成は、取締役会長に團琢磨、代表取締役社長に米山梅吉、代表取締役に池田成彬らが就いた。

経営方針についても、米山が米国で学んだ新しい考えが反映されている。組織を取締役会と経営陣に明確に分け、米山は実際の業務を行う執行責任者として経営陣の先頭に立った。要するに、執行役員制である。現在、多くの企業で採用されているこのシステムを最初に導入したのが米山梅吉であり、三井信託だったということになる。

信託事業の発展

開業以来、三井信託の発展には著しいものが見られた。委託者が引きも切らず、創業1年有余で受託財産は当時の金額で1億円を突破。さらにその3年後の昭和3年(1928)下期末には約3億6500万円に達し、その大部分は金銭信託であった。

資金の運用については、開業当初は貸付金の割合が多くの比率を占め、その後徐々に有価証券投資の割合も増加していった。貸付金の運用先としては長期資金を必要とする公共的な事業が多く、ここに「仕事を通じた社会貢献」という信託業務の特徴が示されている。

一つの例として、地下鉄事業(現在の銀座線)への融資を挙げてみよう。昭和6年(1931)に浅草―神田間がすでに開通していたが、経済界の不況により延長建設が困難な状況に陥っていた。そこで、特別な条件を設定して融資を行った結果、翌年に三越前駅までの開通を見るに至ったという。その他、米山は地下鉄以外も東急鉄道や東武鉄道、京成電気軌道などの私鉄事業、電力施設や劇場、病院、教育施設の建設のための融資や社債の引き受けを積極的に行った。

米山は戦後まもなく他界したが、米山の興した信託事業はその後の復興と高度成長を支え、現在は自然科学・人文科学の研究助成や教育振興、また自然環境・都市環境の保全整備、動物保護、緑化推進など幅広い範囲に及んでいる。信託事業は個人や法人の垣根を越え、社会において人々の思いをつなぐ大きな役割を担っている。

  1. 米山梅吉についてはMITSUI Field Vol.24の三井ヒストリーにて紹介 →本文へ
  2. 池田成彬についてはMITSUI Field Vol.23の三井ヒストリーにて紹介 →本文へ

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.62|2024 Spring より

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