三井ヒストリー

三井の歴史を体現する、
後世に受け継ぐべき文化遺産の数々

三井が伝える美の伝統Ⅵ

(三井家家祖由来の貴重な遺品)

三井各家は江戸時代の17世紀後半から昭和初期に至るまで、約300年間にわたって絵画や墨跡、陶磁器や漆器、あるいは工芸品など数々の美術品を蒐集。それらのほとんどは三井記念美術館にて収蔵・管理され、その中のいくつかを本記事でも紹介してきた。今回は、美術品というより遺品に属するものだが、高利および武家であった三井家の家祖・高安に由来する貴重な品々を紹介しよう。

平安時代まで溯る三井の系譜

三井高利の祖父は高安といい、琵琶湖東の鯰江(*1)の主として越後守を名乗る武士であったという。今回紹介する甲冑はその高安が用いていたと伝えられ、京都の顕名霊社(三井家の先祖を祀る社殿)に御神宝として祀られていたものである。2点の甲冑は、まさに三井家の遠祖が武家であったことを示す物的史料でもあるわけだが、本記事では改めてこの機会に三井家の出自と、その後商家に至る経緯について少し触れてみたい。

三井家の系譜はかなり古く、平安期まで溯るという。家伝によれば平安時代の関白太政大臣・藤原道長の後裔となっているが、これについては史実による確証はない。道長の6男・長家から5代目の藤原右馬之助信生が平安末期に地方官として近江に赴任し、このときに藤原姓を捨て、初めて三井姓を名乗ったとされる。

右馬之助信生は近江に土着して武士となり、それから12代目の三井出羽守乗定は、近江源氏佐々木氏の流れを汲む近江守護大名の六角氏に仕えた。しかし乗定は男子に恵まれなかったため、六角氏から養子を迎える。この養子は高久といい、三井備中守を名乗って鯰江に居城を構えた。高久は六角佐々木氏の出であることから三井の家紋を佐々木氏と同じ「四つ目」とし、また高久以来、三井一族の当主は名前に「高」を付けるようになった(*2)といわれる。

いくさに負けて商家三井家誕生

後に室町幕府15代将軍となる足利義昭を奉じ、上洛間近の織田信長にとっての最後の障害は、琵琶湖東の南近江一帯を支配する六角義賢(後に承禎)・義治父子であった。永禄11年(1568)に勃発した織田と六角の衝突は「観音寺城の戦い」(*3)と呼ばれるが、実はこのいくさによって三井家は後に商家の道を歩むことになる。

信長は最初から六角氏にいくさを仕掛けたわけではない。六角義賢には管領職の安堵を条件に、使者を送って足利義昭の上洛を助けるように申し入れ、数日にわたって粘り強く交渉をしている。しかし義賢はその申し出を拒絶。開戦やむなしと判断した信長は一旦岐阜城に引き上げて体勢を整え、すぐに5、6万ともいわれる軍勢で一気に六角軍を打ち破ってしまう。

戦いのはじめのうちは六角勢も強く、かなり織田軍を押し返していたとされる。しかし、まだ木下姓であった頃の秀吉軍の夜襲によって支城のひとつ(箕作城)を失うと、それを契機に敗走が始まり、六角父子は居城の観音寺城を捨てて甲賀に逃走。その後、六角氏は甲賀を拠点に数年にわたって抵抗を続けるものの、やがて甲賀でも居場所を失い、伊賀まで逃れていくことになる。

以下は推測にすぎないが、この六角軍の敗走グループの中に三井高安もいたのではないだろうか。というのも、後に松坂と呼ばれるようになる伊勢の地まで高安は落ち延びていくが、甲賀と伊賀は近江から伊勢に至るルート上にあるからである。「観音寺城の戦い」では、高安と同様に六角氏に仕えていた蒲生賢秀は織田軍に降伏して息子を人質に差し出し、信長に恭順を示して許されている。この人質が蒲生氏郷であり、後に秀吉の家来となって天正16年(1588)に城主として松坂の町を開いた。

歴史にIFはない。しかし、信長が六角義賢に使者を送ったとき、義賢が足利義昭の上洛を受け入れ、いくさが行われなかったとしたら、三井高安のその後はどうなっていたか。また、蒲生賢秀のように高安も織田軍に降伏していたとしたら…? そうであれば、商家としての松坂の三井家は存在していないだろう。

だが六角氏は信長に破れ、高安は敗走。そして伊勢松坂に落ち延びた結果、高安の息子の高俊は武士を捨てて商人となり、その末裔は大きく飛躍した。「観音寺城の戦い」の結末が後の三井家を形づくっている。

白糸中紅糸威胴丸具足
伝三井高安所用/桃山時代・16~17世紀/北三井家旧蔵

三井高利の祖父・高安の所用として伝わり、顕名霊社に祀られていた。甲冑の大部分を構成する短冊状の小札(こざね)と兜は白檀塗り。具足櫃には宝暦5年(1755)7月に納められたと記され、大正14年(1925)に修復が行われている

縹糸素懸胴丸具足
伝三井高安所用/桃山時代・16~17世紀/北三井家旧蔵

こちらも三井高安の所用として伝わり、顕名霊社に祀られていた。小札は伊予国発祥の伊予礼(いよざね)で銀箔が押され、胴は縹色(明るい薄青色)の糸による素懸威(小札を糸で上下に連結する手法の一種)。烏帽子形の兜に加え、袖・頬当・籠手・佩盾・脛当・腰帯が付属している。安永年間(1772~1781)に奉納されたと記録され、具足櫃には天保12年(1841)再建の墨書がある。大正14年(1925)に修復

屋島合戦
三井高利所持/伝土佐光信筆/室町~桃山時代・14~16世紀/室町三井家旧蔵

「屋島の戦い」は平安時代末期の源平合戦のうちのひとつ。平家物語でよく知られる「扇の的」の一場面が主題で、那須与一がまさに的を射抜こうとする瞬間が描かれている。右上の武者は義経と弁慶ではないだろうか。土佐光信の筆によるもので、彩色の一部や金箔は後に補修された可能性もある。
もともとは高利の所有であったらしく、本作内箱に納められた享保元年(1716)筆の紙片には、高利が四男の高伴(室町三井家初代/1659~1729)に形見として与えたとある。源氏の活躍が描かれた本作は、祖先が近江源氏に関わる高利および三井家にとって特別な意味があったのではないだろうか

  1. 鯰江城
    現在の滋賀県東近江市鯰江町に史蹟として城跡が示されている。→本文へ
  2. 「高」を付けるようになった
    例外もある(高久の孫は「安隆」、高俊の長男は「俊次」など)。→本文へ
  3. 観音寺城の戦い
    観音寺城は六角氏の居城(現・滋賀県近江八幡市安土町)。数ある信長のいくさの中であまりスポットが当たっていないが、信長の天下布武実践という点で最初に行われた戦いであり、歴史上重要な出来事。主要な戦いが六角氏支城の箕作(みつくり)城で行われたことから、「箕作城の戦い」とも呼ばれる。→本文へ

写真提供:三井記念美術館
三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.60|2023 Autumn より

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