三井ヒストリー
三井家の信仰
顕名霊社と三囲神社
木嶋神社と顕名霊社の始まり
木嶋神社は延喜式(*1)による古社で、東映京都撮影所で知られる京都の洛西太秦にある。正式な名称は「木嶋坐天照御魂神社」という。
学問や養蚕、織物の神を祀っていることから「蚕ノ社」とも呼ばれるが、正式名称から推察するならば、本来の祭神は太陽神の「天照御魂」であったのかもしれない。本殿の横に養蚕神社があり、呉服商として越後屋を始めた三井家は、創業当時からこの養蚕神社を信仰していた。
創建は推古天皇の御代(6世紀末から7世紀はじめ)といわれ、三井家は正徳3年(1713)に荒廃していた木嶋神社を再興して祈願所としている。『三井の縁故社寺』(鬼沢正著)には三井家が神霊を祀ることの始まりが詳しく記されているので、同書から少し引用してみよう。
「家業が繁栄し、家系の研究が進むに及び、家祖高利の三男家(新町家)三代高弥等の老分(*2)同族は、宝暦元年(一七五一)九月三日、遠祖高安(*3)以下三代の夫妻に神号を追諡(*4)し、次いで物故以来すでに四十余年を経ていた次男家(伊皿子家)初代の高富に及ぼし、同三年これらの神霊を木嶋神社の神官神服氏の内祭殿に勧請(*5)して、『顕名霊社』と名づけた」
これより顕名霊社は三井家の先祖代々の霊を祀る祖霊社となるのだが、当時はまだ社殿など整ってはおらず、境内に顕名霊社の社殿が建立されるのは、約30年後の安永9年(1780)、遠祖高安の祥月命日(8月22日)まで待たねばならない。
そして社殿ができると、翌天明元年(1781)に総領家の高平夫妻および数柱が合祀された。以来、三井家では仏式の先祖供養のほか、没後100年を経過した同族当主夫妻を神として合祀するのが習わしとなる。三井家菩提寺である京都の真如堂で100回遠忌法要を営まれた歴代同族は、引き続き顕名霊社に合祀されることとなった。
このような先祖の合祀は大名家などに見られる風習であり、子孫が共通の先祖を神として崇拝することで、同族の間には一体感が醸成されていく。このことから、顕名霊社は三井同族の結束を強化するための装置のひとつともいえるのではないだろうか。これまでに三井家の祖先120余柱が祀られている。
顕名霊社の変遷
明治維新後、顕名霊社の社殿は木嶋神社境内から京都油小路の北三井家(総領家)邸内に遷座された。明治政府により「神職世襲禁止令」が公布されたためである。その後、三井家の盛衰とともに顕名霊社も幾多の変遷をたどっている。
明治7年(1874)、三井事業の統括本部が京都から東京に移されたのを機に、東京扇橋(深川)の三井下邸内に「顕名霊神奉安殿」が建造されることとなり、翌8年(1875)には御霊代と遠祖高安着用といわれる鎧や具足など神宝(*6)が京都から移された。
明治21年(1888)になると、北家は扇橋から麹町の三番町に移転する。それに伴い、新たに社殿を造営。さらに明治39年(1906)、東京麻布区今井町に北家の新邸が完成し、社殿もまた移転となった。
今井町の同邸は昭和20年(1945)5月の東京大空襲で全焼したが、幸い社殿は罹災を免れ、北家とともに西麻布の新邸に移転する。そして平成4年(1992)11月、北家第11代当主・三井八郎右衞門高公が逝去すると、翌年9月に北家邸は取り壊され、顕名霊社社殿は墨田区の三囲神社に移築された。
一方、京都の顕名霊社も明治期に油小路北家邸→木嶋神社→下鴨と移転を繰り返した。昭和23年(1948)に再び油小路に戻ってくるが、同33年(1958)の北家邸の処分により、福井松平家(*7)の氏神「佐佳枝廼社」に社殿が譲渡され、その後、福井市の都市開発事業計画によって解体された。
三囲神社への信仰
三井家は木嶋神社を再興してから3年後の享保元年(1716)、江戸においても向島の三囲神社を守護社とし、社殿を修造・再興している。
三囲神社といえば、多くの人がユニークな三本柱の鳥居「三柱鳥居」(三角石鳥居)を思い浮かべることだろう。これは木嶋神社の神池中央の島に建っている鳥居と同じ形で、北家に顕名霊社が遷座した際に造営されたもの。社殿とともに三囲神社に移された。
三囲神社は宇迦之御魂命を祀り、もとは「三囲稲荷」と呼ばれていた。「宇迦」とは食の「うけ」が転化したもので、穀物・食物を表し、宇迦之御魂は日本古来の稲穂を意味する。草創ははっきりしていないが、「弘法大師の勧請による」と社伝にあり、また三囲神社にまつわる言い伝えもあるので少し紹介しよう。
文和年間(1353~1355)に近江三井寺の源慶という僧が伝教大師の霊夢によって東国各地を教化で巡っていたとき、隅田川のほとりで荒れた小堂を見つけた。そこで、通りがかりの農夫に尋ねたところ、弘法大師の建立であることを知る。
源慶は驚き、早速社殿の再建を始めたところ、土中に壺が埋まっていて、掘り出してみると中に老翁の像が入っていた。それは右手に宝珠、左手に稲穂を持って白狐に跨る神像で、伏見稲荷系の宇迦之御魂大神の神像そのものであったという。そのとき、いずこともなく白狐が現れ、神像を三度めぐって、また去って行ったので「みめぐり」と呼ぶようになったとある。
また、元禄6年(1693)は春から旱魃が続いていた。農民が三囲神社に集まり鉦太鼓を叩いて雨乞い祈願をしていると、そこに俳諧の達人・宝井其角(*8)が門人を連れて通りかかり、其角は能因法師や小野小町も雨乞いをした故事に因んで次の句を詠んだ。
「この神に雨乞いする人にかはりて、
遊ふだ地や 田を見めぐりの 神ならば
普 其角」
「遊ふだ地」は「夕立」の掛け言葉である。そしてこの句を神前に奉ずると、翌日雨が降り、そのことが江戸中に広まったという。
三井家が江戸での守護神を三囲神社に決めたのには諸説あるが、まずこの其角雨乞いの霊験によるというのがひとつ。また、三囲の「囲」の文字は口の中に三井の「井」の字があり、三井を囲い守っているからという説、あるいは同神社が江戸の三井の本拠地(本町)から東北にあたるため、鬼門除けの神として守護神としたなどの説がある。
前出の『三井の縁故社寺』には、「京都における三井家の守護神であった木嶋神社の神主神服宗夷は、夜毎夢告に三囲稲荷があらわれたという。これを聞いた高房は、いよいよ三囲稲荷を崇敬し、江戸における三井家の守護神として同家内にもお祀りすることを決意した」ともある。高房は高平の長男で北家三代。享保年間から三井家は同神社に対して数々の支援を行うようになった。
時代が下った現在も、三囲神社は三井グループ各社に守護社として仰がれている。各社の総務部によって結成された三囲会は年に数回の祭典を行い、三越各店では分霊を祀っている。
- 延喜式
平安中期に編纂された律令の施行細則をまとめた法典 →本文へ - 老分
高齢であり、人生経験が豊富な人のこと →本文へ - 遠祖高安
三井高利の祖父。六角氏に仕えた武士で「越後守」を名乗った →本文へ - 追諡
死後におくりなを送ること →本文へ - 勧請
神仏の来臨を願い、神仏の分霊を請じ迎えること →本文へ - 神宝
前号「三井家由来の貴重な遺品」参照 →本文へ - 福井松平家
三井八郎右衛門高公の夫人、鋹子(としこ)の実家 →本文へ - 宝井其角
江戸前期の俳人で、蕉門十哲と呼ばれる松尾芭蕉の弟子のひとり →本文へ
三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.61|2024 Winter より