コラム「三井を読む」

三井信託株式会社初代社長。
奉仕の精神あふれる財界人

米山梅吉
(1868〜1946)

中上川彦次郎後の三井銀行を池田成彬とともに強力に牽引し、後には三井信託株式会社を創立して初代社長に就任。日本の銀行業務近代化へ多大な貢献を果たした。また、日本初のロータリークラブ「東京ロータリークラブ」を設立。三井退職後は「三井報恩会」理事長、貴族院議員としても数々の活動を行う。社会奉仕の人として、明治・大正・昭和の激動時代を駆け抜けた。

志を抱いて東京へ

『三井銀行八十年史』より

米山梅吉は慶應4年(1868/9月8日より明治)2月4日、大和国高取藩士和田竹造の三男として東京芝田村町(現在の新橋付近)の同藩中屋敷に誕生した。江戸住まいを考えると、父親は士族としてなかなかの身分であったと思われる。しかし梅吉が4歳のときに他界し、梅吉は母の郷里である三島に移った。

母は伊豆三島神社の宮司の娘であった。神官は当時の知識階級でもあり、梅吉は教養レベルの高い家庭環境で育ち、年少ながらも漢学の素養を得ていたという。その和田梅吉は11歳で三島の旧家、米山家の養子になることが決められていた。

明治14年(1881)、梅吉少年は沼津中学に進学。同校は幕府時代の沼津兵学校の後身で旧幕臣の学者らが教師を務め、地方とはいえレベルの高い教育機関であった。梅吉には文筆の才があり、後にジャーナリストを志したほどだが、そうした基礎はこの頃に身につけたものであろう。

だが、梅吉には悩みがあった。このまま三島にいては米山の旧家を継がねばならず、地主として一生を過ごすことになる。東京に行って、さらに高いレベルの勉強をしたいというのが梅吉の願望だった。そこでついに覚悟を決め、ほとんど家出同然に米山家を飛び出たのである。

より高みを求めて渡米

東京では江南学校というところに入ったものの、ここでの勉学は沼津中学ほどの満足が得られず、梅吉はすぐに退学してしまう。食べていくためには働かなくてはならず、東京府の吏員採用試験を受けて一時的に就職した。この頃に藤田四郎(後に農商務長官、貴族院議員)という人物との出会いがあり、それがやがて梅吉の運命を大きく変えることになる。

東京府の吏員をしているうち、米国では働いて学資を稼ぎながら大学に通えることを知り、渡米しようという気持ちが膨らんでいった。吏員をいつまで続けていたかは不明だが、この時期、一旦飛び出してしまった米山家との間で修復を図り、明治20年(1887)には正式に米山家への入籍を果たす。以後、和田梅吉は米山梅吉を名乗ることになる。

米山家に対する憂いのなくなった梅吉は、明治21年(1888)に渡米。スクールボーイと呼ばれる働きながら大学に通えるシステムを利用し、オハイオ州のウェスレアン大学やニューヨーク州のシラキュース大学などで学んだ。そうして滞米生活は8年に及び、明治28年(1895)、日本が日清戦争に勝利した年に帰国する。

三井銀行に入社

梅吉の年来の志望は文筆で身を立てることであり、まず新聞社に職を求めた。福沢諭吉の時事新報をはじめ、ほうぼうの新聞社を当たったといわれるが、結局新聞記者になることは叶わなかった。また、当時の新聞記者の給与は安かった。

梅吉は帰国後、米山家から春子夫人を迎えて家庭を持っていただけに、早く収入を得る必要があった。そこで新聞社をあきらめて日本鉄道会社に入社する。しかし、ここでも給料が安いため副業をしなければならず、新聞記事の原稿料やアメリカ人に日本語を教えることで副収入を得なければならなかった。結局この会社を辞め、かつて上京したときに知遇を得ていた藤田四郎に相談すると、藤田は思わぬチャンスをくれたのである。

藤田四郎は、ときの財界の大御所ともいうべき井上馨の娘婿になっていた。その井上の口利きで益田孝や三井銀行の中上川彦次郎に紹介され、やがて明治30年(1897)10月、三井銀行に入社が決まる。もちろん、単なる紹介だけで三井に入れたというわけではないだろう。井上も益田も中上川も、米山梅吉という人物に感じるところがあったからこその入社であった。

米山梅吉はもともとジャーナリスト志望だっただけに、実業界に身を投じながらも多くの書を著している。処女作『提督彼理』(ていとくぺるり/博文館/1896/国立国会図書館蔵)は、自分の文章を世間に問うために対米中に書き上げたといわれる。題字は勝海舟。また、帰国後は維新史を書くつもりで勝海舟のところに出入りし、話を聞きながら研究していたという。

梅吉は実業方面の教育を受けていなかったため、当初は簿記がわからず計数にも疎かったという。しかし、実地に学ぶうちにみるみる頭角を現していった。

翌明治31年(1898)7月には神戸支店次席となり、さらに同年9月、欧米の銀行業務視察を命じられ、池田成彬、丹幸馬とともに渡米することになった。人選にはもちろん梅吉の英語力もあったことだろう。だが入社わずか1年でこうした大役が回ってきたところに梅吉の実力と信頼、そして運のよさも見て取れる。

欧米視察は1年以上に及んだ。帰国すると、それから3カ月をかけ、池田成彬とともに『三井銀行欧米出張員報告書』をまとめ上げた(もう一人の同行者の丹幸馬は病死したと伝えられている)。この報告書が三井銀行内のみならず、銀行近代化の指針として長らく日本中の銀行で用いられてきたことは前号で記したとおりである。

欧米出張後、米山梅吉はしばらく本店営業部に勤め、やがて大阪支店次席、大津支店長、東京深川支店長、横浜支店長、大阪支店長と階段を上っていく。そして明治42年(1909)10月、合名会社三井銀行が株式会社組織になると同時に常務取締役に就任。以後、大正12年(1923)に辞任するまで、池田成彬とともに三井銀行の経営に当たった。

社会奉仕の精神

米山は、数度にわたる海外視察により、海外の信託業務の発達状況に強く関心を示していた。信託とは、委託者がその保有財産を受託者(信託会社等)に預け、信託財産としてそこから利益を得る受益者のために管理や処分を委託する制度をいう。

米山は、日本でもこうした信託業に対する要望が必ず強まると確信していたのである。米山が三井銀行常務取締役を辞任した大正12年は、信託業法が施行された年でもあった。その翌年、米山は三井信託株式会社を設立して社長に就任。銀行業務の新たな分野を開拓した。

米山は、常に社会奉仕に情熱を傾ける人物であった。三井銀行常務取締役時代、訪米の折にロータリークラブの存在を知ると、その奉仕という理念に共鳴。大正9年(1920)に日本初の東京ロータリークラブを発足させ、初代会長となっている。実業界から退き、昭和初期の恐慌による大財閥に対する世間のバッシングが激しくなった折には、池田成彬とともに『財団法人三井報恩会』を設立し、理事長として社会事業や文化事業への助成、福祉活動に尽力した。また私費を投じ、緑岡小学校(現在の青山学院初等部、ならびに幼稚園)を創立し、初代校長となっている。

昭和13年(1938)12月には、貴族院議員に勅撰。以来、米山はライ病の療養所を度々視察するなど、東北から沖縄まで福祉活動の遍歴を続けた。

しかし、米山自身も徐々に前立腺肥大という病魔に蝕まれ、それが持病となって苦しむようになっていった。終戦直後の昭和20年(1945)9月に国会に登院しているが、さまざまな無理がたたり、持病はがんとなって悪化。翌昭和21年(1946)4月28日、郷里の長泉村の別荘で死去。78歳であった。

和暦(西暦)/年齢 出来事
慶應4年(1868)/0歳 2月4日、高取藩士和田竹造の三男として江戸芝田村町に誕生
明治5年(1872)/4歳 父竹造死去。母うたの実家のあった静岡県三島市で幼時を過ごす
明治12年(1879)/11歳 静岡県駿東郡長泉村の旧家、米山家の養子となる
明治16年(1883)/15歳 沼津中学校を中退して上京。大学予備門を目指す
明治21年(1888)/20歳 渡米。働いて学費を稼ぎながら各大学で政治・法学を学ぶ
明治28年(1895)/27歳 帰国。新聞記者を志す
明治30年(1897)/29歳 三井銀行に入行
明治31年(1898)/30歳 銀行業務調査で欧米に出張。14カ月に及ぶ調査報告書をまとめる
明治33年(1900)/32歳 三井銀行大津支店長をはじめ、各地の支店長を歴任
明治42年(1909)/41歳 常務取締役に就任。以後、池田成彬とともに銀行経営にあたる
大正6年(1917)/49歳 政府特派財政経済委員会委員として渡米
大正7年(1918)/50歳 團琢磨とともに朝鮮・満州・志那(当時の呼称)を視察
大正9年(1920)/52歳 政府臨時財政経済調査員となる。東京ロータリークラブを創立
大正10年(1921)/53歳 米英訪問日本実業団に参加。米国各地の実業家を対象に講演する
大正12年(1923)/55歳 三井銀行常務取締役を辞任
大正13年(1924)/56歳 三井信託株式会社を設立し、社長に就任
昭和9年(1934)/66歳 三井信託株式会社社長を辞任。財団法人三井報恩会理事長に就任
昭和12年(1937)/69歳 財団法人緑岡小学校(現青山学院初等部)を私費で創立。
校長となる
昭和13年(1938)/70歳 貴族院議員に勅撰される
昭和21年(1946)/78歳 4月28日、静岡県駿東郡長泉村にて死去

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.24|2014 Autumn より

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