三井ヒストリー

官営三池鉱山から三井の三池炭鉱、
そして終焉まで

三井三池炭鉱史話
(後編)

三池炭の海外販売は、スタートしたばかりの旧三井物産にとっても、海外の拠点を開拓していく上でメリットの大きいビジネスだった。 やがて、政府が三池炭鉱の払い下げ方針を打ち出すと、旧三井物産社長の益田孝はからくも落札に成功。その後、鉱山事業は三井銀行、旧三井物産とならび、戦後石炭産業が衰退するまで三井財閥を支える大きな収益源となっていった。

三池炭礦四ツ山坑坑内人車(公益財団法人 三井文庫所蔵)

上海に最初の海外拠点を開設

三池炭を海外のどこに売り捌くか。その主要な輸出先として最初に白羽の矢が立ったのが上海市場であった。明治9年(1876)、政府は上海総領事宛に三池炭の見本を送り、石炭販路の調査を依頼する。

一方、益田孝も翌年上海に赴き、旧三井物産の海外支店開設の準備を着々と進めていった。

当時、三池炭の運搬は大牟田川の河口から船で口之津港に集められ、口之津からは小型船で長崎に運ばれ、そして長崎からは外洋の帆船に積み替えられて上海に輸出されていた。

石炭の輸出量を増やすために、運搬効率を高めることは必須の課題でもあった。そこで旧三井物産は、まず明治11年(1878)に工部省が持っていた640トンの英国船、千早丸という帆船の貸与を受けた。続いて英国から679トンの汽船を購入して秀吉丸と名付け、さらに明治13年(1880)には1075トンの頼朝丸を英国から購入。こうした運搬面の強化によって石炭の輸出は拡大し、それとともに石炭以外でも旧三井物産の海外貿易事業は順調に推移していく。

官営三池鉱山の民間払い下げ

明治21年(1888)になると、政府は官営三池鉱山の民間払い下げ方針を打ち出す。最低価格が400万円以上という一般入札によるものであった。

ただ、政府の払い下げ方針と、高額な最低入札金額にはいろいろ裏事情があったという。

外貨獲得の重要な産物である三池炭の生産を阻んでいる最大のネックは、掘る度に湧き出してくる水であった。その水を処理するために、三池炭鉱主任技師の團琢磨は、「欧米の炭鉱を視察して技術を研究し、最新の機械を設備する必要がある」と政府に具申。当時蔵相の松方正義は團の希望を受け入れ、調査研究のために欧米に派遣する(明治18年以降、鉱山局は大蔵省に移管されていた)。

ところが、そのようなタイミングで大隈重信が入閣し、かねてより提唱していた官業払い下げを実行しようとしたのである。

当時の最低入札額400万円が、現代でどれほどの金額に相当するのかはちょっと想像がつかない。参考までに明治15年(1882)末の三井銀行の経理内容を見ると、官金預かり高約681万円、民間預金が約540万円で、合計約1221万円であった。

入札額は、当時の三井銀行預金合計額の約3分の1にも相当するのである。現代の銀行が取り扱っている預金額に置き替えてみれば、いかに途方もない額だったかがわかる。

僅差での三池炭鉱落札

当時、政府による民間払い下げの場合、価格は一般価格を下回るのが通例だった。たとえば政府が建設に45万円を費やした官営長崎造船所を三菱に払い下げたときは、わずか9万円である。三池炭鉱の場合、設備投資額が74万円で営業資本は22万5000円だから、長崎造船所の例にならえば、払い下げ額はどう見ても70万円以下というところであろう。

しかし松方は、大隈による三池鉱山払い下げの施策には反対であったという。最低入札額の根拠は、一応三池の炭量調査を基礎に計算されたとはいうものの、松方は払い下げが実現しないよう、蔵相の権限で誰も手が出せないような金額を設定したのである。

一方、大隈のほうも、まさか三井がこの高額で入札に参加するとは考えていなかった。

後に益田は次のように振り返る。

「三菱は入札はしないで、岩崎弥之助さんの名で、政府がお困りなら私にお委せなさい、よくして上げます、という書面を大蔵大臣に出したということである。この三池炭鉱の払下げということは、朝吹だの何だの、大隈幕下の策士たちの陰謀であった。…〈中略〉…三井は買うまいと思うておった。三菱へただで取ってしまおうというのであった」(『自序益田孝翁伝』長井実・編より)

どんなに高くても、三井としては三池炭鉱を落札しなければならない事情があった。人手に渡ってしまえば、これまで築き上げてきた旧三井物産の海外支店を引き上げねばならぬことにもなりかねない。すると他の貿易事業にも大打撃が生じてくる。

熟考の末、最終的に益田が示した金額は455万5000 円(佐々木八郎名義)。2番手の455万2700円(島田善右衛門代理・川崎儀三郎名義/実は三菱)とは、わずか2300円という僅差での落札だった。

三井に團琢磨を迎える

こうして三池炭鉱の経営は三井に委ねられることになったが、先述のように官営三池鉱山局の團琢磨は、このとき視察のために洋行中であった。留守中に自分の職場が人手に渡ってしまったというわけである。

浪人の身となる團を心配し、義兄でともに米国留学をした親友金子堅太郎(当時元老院勤務書記官)は、團の帰国前に福岡県庁への再就職を斡旋していた。しかし、益田もそれに驚いた。

「三池炭鉱入札の金額には、團琢磨の価値もその中に入っている」

益田は金子にかけ合い、福岡県庁勤務の100円の俸給に対して倍額の200円を提示する。こうして金子を納得させ、改めて團を得たのである。

三池炭鉱は明治23年(1890)1月3日に政府から引き渡しを受け、三井は「三池炭礦社」を組織する。團はその最高責任者である事務長という形で三井に迎えられた。以後、團の業績は枚挙にいとまがない。

明治25年(1892)には三井鉱山合資会社が設立され(翌年に合名会社)、團の指導によって出水対策のためのデーヴィポンプ導入や三池港の筑港など、炭鉱経営の近代化と合理化が進められた。そして日露戦争後の最盛期の出炭量は200万トンにも達し、三井鉱山は三井銀行、旧三井物産とともに昭和に至るまで三井財閥を支える中核事業となった。

万田坑の第二竪坑跡に今も残る巻揚機。人が乗るケージの昇降に使用され、炭鉱マンの命を支え続けた

石炭産業衰退と近代の三池炭鉱

しかし戦後、石炭の需要が減り、産業そのものが衰退していくと、三池炭鉱も人員を減らして時代に対応せざるを得なくなってきた。昭和34年(1959)12月、大量解雇の方針が伝えられると、労働者との間で激しい労働争議(三池争議)が発生し、約1年にわたるストライキが行われた。

また、昭和38年(1963)11月9日に三川鉱で炭塵爆発事故が発生して458人が死亡。さらに昭和59年(1984)1月18日には有明鉱坑内で火災が発生し、83人が死亡するなど、おびただしい数の犠牲者を出した。

近代に至って安全性も効率も向上していたはずの三池炭鉱だが、一度事故が発生するとその規模は大きく、補償問題は経営をさらに圧迫した。また時代が進むにつれ、石炭はますます必要とされなくなっていった。

平成9年(1997)3月30日、ついに三池炭鉱は閉山となる。三井が明治政府から払い下げを受けて以来、100年以上に及ぶ歴史の幕がこのとき閉じたのであった。

今も福岡県大牟田市、熊本県荒尾市には当時の炭鉱産業の景観が残されている。近年、九州・山口の複数自治体からなる協議会により、三池を含む明治の産業遺産について世界遺産登録を目指すという取組みも進められている。また、周辺では三井不動産や三井物産などの三井グループ企業が携わるものをはじめ多数のメガソーラー(大規模太陽光発電所)計画が推進され、新たなエネルギー産業の地に生まれ変わる可能性も秘めている。

年号(西暦) 出来事
明治21年(1888) 官営三池鉱山を三井が落札
明治23年(1890) 政府より三池炭鉱が引き渡される。
「三池炭礦社」を組織。團琢磨を事務長に迎える
明治24年(1891) 蒸気機関車により三池炭鉱専用鉄道開通(三池横須浜、七浦坑間)
明治25年(1892) 「三井鉱山合資会社」設立
明治41年(1908) 三池港が開港
昭和5年(1930) 囚人の採炭作業徴用を廃止
昭和34年(1959) 炭礦労働者大量解雇の方針発表。
翌1960年にかけて労働争議が起きる
昭和38年(1963) 三川鉱にて炭塵爆発事故が発生し、458人死亡
昭和59年(1984) 有明鉱坑内で火災事故が発生し、83人死亡
平成9年(1997) 三池炭鉱閉山
  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.21|2014 Winter より

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