三井ヒストリー

團琢磨亡き後、激動の昭和時代に
三井財閥の舵とりを担う

池田成彬
(1867〜1950)

池田成彬は長い間三井銀行の常務取締役として、経営に辣腕を振るった。また、三井合名理事長の團琢磨が凶弾に倒れた後を引き継ぎ、昭和初期の不穏な世相における財閥バッシングを回避するため、さまざまな施策を打ち出しながら三井改革を推進。昭和13年(1938)に三井を退職すると、日銀総裁や大蔵大臣などを務めた。
  • 「池田成彬」については「いけだしげあき」と「いけだせいひん」の二通りの表記があり、「しげあき」とする場合がありましたが、『池田成彬伝』(今村武雄著、慶応通信発行)に「Mr. Seihin Ikeda」という名刺の写真が掲載されていたことから、今後は「せいひん」と表記いたします。

團琢磨殺害の衝撃

明治の末期から大正、昭和にかけて、三井財閥は銀行、鉱山、そして旧三井物産※1を3本柱とし、製鋼、造船、化学肥料等さまざまな産業を興していった。三井合名理事長の團琢磨体制下、順風満帆であったといえる。

しかしこの時代、日本は発展途上にあり、国民一般はまだまだ貧しかった。昭和に入ると1929年のウォール街の暴落や、1931年ヨーロッパからはじまる世界恐慌の煽りを受けて国内の経済状況は厳しさを増し、それとともに既成政党や一部財閥に対する不満が世間に充満しはじめていく。それはやがて、一部思想集団による要人テロという過激な行動につながっていった。

昭和7年(1932)2月、前蔵相の井上準之助が暗殺され、続いて翌3月には三井合名理事長の團琢磨も血盟団員に射殺された。突然團を失ったことは三井にとって大変な衝撃であり、また財閥運営に対する大きな痛手であった。

三井合名は「防衛係」を特設して社内の防衛を強化するとともに、團の穴を埋めるためにこれまでの常務理事2名に加え、新たに銀行、信託、鉱山、旧三井物産から4名をそれぞれ現職のまま合名理事に任命し、6名による合議制を布いた。この新たな4名のなかに、三井銀行筆頭常務理事の池田成彬がいた。

新聞記者志望から一転、三井銀行に

池田成彬は慶応3年(1867)、出羽国(現・山形県米沢市)に生まれた。父親は米沢藩の江戸留守居役を務め、士族のなかでは上士階級であったことから家庭環境は割合恵まれていたようだ。維新後13歳で東京に出てくると漢学と儒学を学び、大学予備門としての慶應義塾別科を卒業。さらに明治23年(1890)、新設されたばかりの慶應義塾大学部理財科に入学し、その後すぐに渡米して5年間ハーバード大学で学んだ。

『三井銀行八十年史』より

池田は当初新聞記者になることを志していた。明治28年(1895)に帰国すると、福澤諭吉が主宰する「時事新報※2」に勤めている。ところがわずか3週間で辞めてしまい、すぐに三井銀行に入行。辞めた理由は定かではないが、当時三井銀行は中上川彦次郎が内部体制の改革を強く進めている時期であり、慶應義塾の卒業生を次々と入行させていたことから、中上川からの誘いがあったのかもしれない。

三井銀行に入行すると、中上川の指揮の下、大阪支店や足利支店に勤務しながらハーバードで学んだ知識や経験を活かしてさまざまな成果を上げていった。また、明治31年(1898)には欧米出張を命ぜられ、銀行業務調査を行った。このとき一緒に渡航した同行の米山梅吉(後に三井信託初代社長)とともにまとめた『三井銀行欧米出張員報告書』は、銀行近代化の指針として、長らく日本中の銀行で用いられていたという。

帰国後は本店に異動。そして、明治42年(1909)、それまで合名組織であった三井銀行を株式会社に改組するにあたり、常務取締役に選任された。大正7年(1918)には筆頭常務となり、以後團琢磨が凶弾に倒れるまで、前出の米山梅吉とともに両輪で三井銀行の経営にあたった。

死を覚悟して合名常務理事に就任 團亡き後、三井合名としてはとりあえず合議制を布いたものの、この難局に素早く対応するためには、やはり三井合名の仕事に専心的に打ち込むことのできる團のような中心人物がどうしても必要だった。そこに白刃の矢が立ったのが池田成彬であった。

折しも五・一五事件(現職の犬養首相暗殺)が起こり、テロの脅威は去るどころか、社会にはますます不穏な空気が充満していった。それが理由かどうかは不明だが、池田は当初、この役目を引き受けることを渋っていたという。しかし、やがて一身の利害はさて置き、三井の時局対策を引き受けたのである。

このとき、池田は恐らく死をも覚悟したのだろう。実際、池田は血盟団員のひとりに執拗に狙われていたのである。しかし池田の用心がよかったのか、スキが見当たらず、襲撃されるまでには至らなかった。昭和8年(1933)、池田は長年勤めた三井銀行を辞し、三井合名の筆頭常務理事に就任した。

欧米出張員報告書(『三井銀行八十年史』より)

反財閥の風潮に対する内部改革

三井合名を率いる立場になった池田が最初に行ったのは、三井十一家の、三井各事業との関わりに対する改革であった。当時、十一家の人々はそれぞれ三井系各事業の社長や会長職に就いていて、その意見調整に多くの時間と労力を必要とした。

「合名に行くようになってから、自分のエネルギーの7~8割を三井家の人たちとの調整に使わねばならなかった」とは池田の述懐である。

そこで、合名の正副社長と有力社員3名を十一家の代表とし、池田と有賀長文(團琢磨体制下での常務理事)の2名を加え、7名で時局に対する一切を決めて実行するように運営を改めた。

また直系会社についても「三井の主人が役員となり空位を占めているのはよくない。実際に仕事をしている人を専任すべき」として、三井家の主人を第一線から退かせた。

不況を背景とする国内情勢や世論の変化により、反財閥の空気が充満している時局に対して池田自身は次のように表明している。

「今後の財閥は、小資本が容易に着手し経営できる事業からはなるべく手を引き、大資本でなければ経営を完成し得ないような国家的事業に主力を向けること。また、財閥は独占または独占的支配下にある既成の事業を暫時解散して、社会民衆とともにその福利を共有する覚悟が必要」(『池田成彬伝』今村武雄)

その施策の一環として、大衆との共存共栄ならびに公益事業に尽くすことを目的とする三井報恩会を設立。その基金に、合名社長の三井高公は当時の金額で3000万円(現代なら200億円以上)を寄付した。この時期、報恩会以外にも失業救済費や風水害に対する救済、航空研究など、三井としてさまざまな寄付を行い、その合計額は昭和8年から4カ年で6200万円にものぼったといわれる。

「三井はもう金儲けをするな。社会のために金を使え」というのが池田の方針であった。さらに池田は財閥の事業独占排除を実行すべく、王子製紙、東洋レーヨン、東洋高圧、三池窒素などの株式50万株を公開した。

三井引退後に官界に進出 昭和11年(1936)、池田は合名社員臨時総会で役員を含む社員の定年制を提案、決議された。内容は、筆頭常務と参与理事は満65歳、常務理事と理事は60歳、使用人は満50歳(例外規定あり)というもので、このとき68歳の池田は自動的に退職となった。

引退した池田はしばらく大磯の自宅で静養の日々を過ごすが、70歳になると請われて官界に身を投じた。昭和12年(1937)日銀総裁、昭和13年(1938)の第一次近衛内閣では大蔵大臣兼商工大臣として入閣した。

また昭和16年(1941)には東条英機の下で枢密顧問官となるが、欧米をよく知る池田は元来アメリカと戦争すべきではないという考えであり、東条と対立。そのため憲兵隊の監視対象とされた。

戦後は大磯に引きこもって隠棲。昭和25年(1950)10月、胃潰瘍のために自宅で永眠した。83歳であった。

和暦(西暦) 出来事
慶応3年(1867) 出羽国(現・山形県米沢市)に誕生
明治21年(1888) 慶應義塾別科卒業
明治23年(1890) 慶應義塾大学部理財科入学
米国ハーバード大学留学
明治28年(1895) 帰国。「時事新報」を3週間で退社し、三井銀行に入行
明治31年(1898) 欧米で銀行業務調査実施
明治42年(1909) 三井銀行常務取締役就任
大正8年(1919) 三井銀行筆頭常務就任
昭和7年(1932) 團琢磨暗殺
昭和8年(1933) 三井合名筆頭常務理事就任
昭和10年(1935) 内閣審議会委員
昭和11年(1936) 三井合名を退職
昭和12年(1937) 日銀総裁就任
昭和13年(1938) 大蔵大臣兼商工大臣(第一次近衛内閣)として入閣
昭和16年(1941) 東条英機の下で枢密顧問官。太平洋戦争はじまる
昭和20年(1945) 終戦
昭和25年(1950) 大磯の自宅にて没
  1. 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。
  2. 明治15年(1882)発足。発足当時は中上川彦次郎が社長を務めていた。

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.23|2014 Summer より

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