三井ヒストリー

幕末の三井の活動

新選組と三井京都両替店

新選組のファンは多くいる。歴史好きにとって幕末という興味の尽きない時代背景に加え、司馬遼太郎や子母澤寛ら著名作家による個々の新選組隊士の描写が、多くの人に共感や感動を与えているからではないか。その新選組が、三井と接触していたという記録が残っている。新選組はなぜ三井に近づいたのだろうか。また、そのとき三井は新選組にどう対応したのか。今回は幕末の京都に飛び、新選組と三井との関わりに触れてみよう。

新選組からの借金要請

『新選組金談一件』と呼ばれる三井文庫所蔵史料の中に、京都の三井両替店(以下、京両替店)が新選組から借入を申し込まれた顛末が記されている。これは新選組と直接交渉を行った同店組頭の藤田和三郎という人物が記述したものだ。

藤田は嘉永5年(1852)、23歳のときに書役として入店した。丁稚奉公なしの中途採用であり、書役というだけに筆まめで数多くの書類を書き残している。同史料によれば、新選組が三井に話を持ちかけたのは慶応2年(1866)9月8日。京両替店の富三郎という者が西本願寺の新選組屯所に呼び出され、近藤勇と土方歳三から直接金1千両の一時的な借入を要請されている。

新選組は最大時、230名ほどの隊士が所属していた。京両替店に申し入れした時点でどれほどの人員を抱えていたのかは不明だが、それでもかなりの大所帯だったと思われる。隊士の給与支払いに加え、当面の買い物の支払いなどにも困った挙句、三井への金談になったのだろう。

新選組の成り立ちと活動資金

新選組の組織や成り立ちについては一般によく知られているところだが、本記事でも簡単に触れておきたい。

文久3年(1863)、公武合体のために第14代将軍徳川家茂が上洛することになった。新選組は、その護衛を目的に幕府が浪士を徴募したことに始まる。浪士組結成を献策したのは元庄内藩士の清河八郎(*1)で、天然理心流剣術道場を江戸牛込(現在の新宿区市ヶ谷柳町)で運営していた近藤勇は徴募に応じ、同年2月8日、一門8名を連れて京都に出立した。

ところが京都に着くと、清河から浪士組結成の目的は「尊王攘夷」であると知らされる。それにより、浪士組は意見を異にする近藤らと2派に分裂した。

清河一派は江戸に引き返したが、近藤は水戸浪士の芹沢鴨らとともに京都残留の嘆願書を提出し、会津藩の京都守護職預かりとなる。このときの宿舎が京都壬生村にあったことから、当面は「壬生浪士組」と称した。

近藤らはほどなく会津藩主松平容保に拝謁が叶い、以後壬生浪士組は会津藩の下で京都市中の治安維持の任に当たった。そして同年8月18日の、いわゆる「七卿落ち(*2)」と呼ばれる政変での活躍が評価され、壬生浪士組は会津藩より「新選組(*3)」の名が与えられた。

では、新選組の活動資金はどうなっていたのか。

『新選組金談一件』によれば、新選組は会津藩の支配下にあり、組頭は月に10両、隊士は月に2両の手当を受けている。また馬を4、5匹飼置き、鉄砲稽古を行っているなど、ほかにも経費がかかるとあり、会津藩からの支給だけではとても足りない様子がうかがえる。そもそも会津藩自体が財政難であり、新選組は独自に資金集めも行っていた。

元治元年(1864)12月から慶応元年(1865)4月にかけて、近藤勇は大坂での会津藩御用の名目で、加島屋久右衛門、鴻池善右衛門、平野屋五兵衛ら22人の大坂の富商から合計7万1千両を調達したことが知られている。ただ、この金額は現在価値で約35億円ともいわれ、新選組の活動費としてはいささか多すぎる。そのため財政難の会津藩が新選組を使って集めさせ、藩の裏金として処理したのではないかといった見方もされている。

新選組局長の近藤勇(左)と副長の土方歳三(右)。「金談一件」から2年後の慶応4年(1868)、戊辰戦争に敗れて近藤は下総(現在の千葉県流山市)で捕らえられ、斬首される。土方は宇都宮、会津と転戦し続け、明治2年(1869)、函館の戦いで戦死を遂げる(出展:永見徳太郎編『珍らしい写真』/粋古堂/昭和7年/国立国会図書館デジタルコレクション)

もうひとつの京都治安維持組織

新選組ばかりでなく、京都の治安維持には「京都見廻組」と呼ばれる別の組織もあった。元治元年4月26日、幕府は京都の治安維持のための役職「京都見廻役」を設け、浅尾藩主の蒔田広孝(相模守)と旗本の松平康正(出雲守)が初代に就任。その実行部隊として、幕臣の次男や三男など御家人で構成された京都見廻組が組織された。

つまり見廻組は幕府直属の、現代流にいえば正規雇用のグループということになる。対して新選組のメンバーは外部から寄せ集められた浪士である。彼らも後に幕臣に取り立てられ、見廻組と同格になるのだが、この時点では身分の違いによって反目し合うこともあった。ただ、新選組が祇園や三条など町人の街の警備を担っていたのに対し、京都見廻組は主に当時の京都の官庁街ともいえる御所や二条城周辺の警備を管轄していた。担当エリアが違うため、両者が共同で活動するようなことはあまりなかったといわれる。

実は、その京都見廻組も活動資金での苦労はいろいろあったらしく、三井に借入を要請していた。

藤田和三郎の上司に当たる支配役の山崎甚五郎が慶応元年5月に書いた『見廻組調達一件』によれば、松平出雲守配下の組が三井越後屋京本店に金2千両の調達を依頼したと記録されている。

そのときに対応した越後屋京本店は呉服仕入店であることから申し出を断ったが、御為替御用を務める京両替店をうっかり紹介してしまった。すると、その日のうちに4名の見廻組が押しかけてきたという。

山崎は金1千両ならば「自分の一存で都合をつけても良い」と申し入れたが、見廻組は承知しなかった。この一件を京両替店が懇意にしている西町奉行所の与力に相談すると、これは公的な御用筋とのことで、結局断り切れず、やむなく2千両を融通せざるを得なかった。

とはいえ、三井も黙って金談に応じたわけではない。2千両の調達金について蒔田相模守の組から内々の調査が行われたことで、強引な談判が松平出雲守の耳に入った。それで三井から町奉行所に訴えられるのを恐れた出雲守から、返済の確約をしっかりと取り付けていたのである。

三井両替店の新選組への対応

新選組の一時金借入要請に話を戻そう。新選組は見廻組が三井から2千両を調達したという情報を得ていて、それで三井に近づいたのかもしれない。近藤勇は次のように言う。

当役所入用金御支配会津矦より御渡有之候処…

当役所では必要な資金は会津からいただいているとして、新選組は会津藩の支配下にあるれっきとした組織であることを強調。その上で4、5日の立替金千両に利子を付けると言い、さらに新選組の出入御用達となることを要請した。

では、三井側は新選組をどう見ていたのか。

此新選組と申者如何之御役向柄御取扱被成候事哉、御知行ニ而も有之儀哉、世評ニも何歟一通り公辺御役向不分明ニ而、詰り合点不参御役柄ニ付…

この新選組とはどのような役割や立場で取り扱われているのか。知行(領地)を持っているのだろうか。世間の評判も公的な役目がはっきりせず、結局その役割について理解できないと、端から疑っている。

新選組は京都で治安維持の任に就いて以来、「生糸問屋大和屋の焼き討ち」(文久3年8月)、「芹沢鴨の暗殺」(同年9月)、「池田屋事件」(元治元年6月)、「ぜんざい屋事件」(同2年1月)など、数々の争乱を起こしてきた。

もちろん、三井側もそのような出来事は知っていたことだろう。ただ、新選組の実態については把握しきれていなかったことがうかがえる。

京両替店は、当初から新選組の話を断るつもりでいた。そこで、まずは西村芳三郎(*4)という西本願寺の寺侍に相談を持ちかけた。西本願寺は新選組の屯所であったことから、西村は新選組の内情に通じていた。西村は新選組のおおよその情報を三井に提供するとともに、新選組とは関係を持たぬよう進言。さらに新選組幹部の三木三郎(*5)と篠原泰之進(*6)に話をつないだ。

その後、三木と篠原が近藤や土方にどのように話をつけたのかは不明だが、最初の呼び出しからひと月ほど経った10月4日、藤田和三郎が屯所に出向くと、近藤から「今後借入を願うことはない」との返答を得た。これにて京両替店はからくも新選組と手を切る(*7)ことができたのだった。

  1. 清河八郎:出羽国出身。尊王攘夷・討幕の思想家。文久3年(1863)4月13日、麻布赤羽橋で暗殺される。 →本文へ
  2. 七卿落ち:三条実美(さねとみ)、三条西季知(すえとも)、東久世通禧(みちとみ)、壬生基修(もとおさ)、四条隆謌(たかうた)、錦小路頼徳(よりのり)、澤宣嘉(のぶよし)の七卿が長州へ落ち、朝廷内の尊攘派が一掃された。 →本文へ
  3. 新選組の名前の由来:新選組はもともと会津藩にあった武芸に秀でた剣客集団の名称。壬生浪士組は8月18日の政変における働きで、その名誉ある名を受け継ぐに相応しいと評価されたことになる。このときの新選組のメンバーは総勢24名。 →本文へ
  4. 西村芳三郎:明治22年(1889)に新選組の見聞録、『新撰組始末記(一名壬生浪士始末記)』を著した西村兼文と同一人物とみられる。 →本文へ
  5. 三木三郎(鈴木三樹三郎) :新選組9番隊組長。伊東甲子太郎の実弟。兄とともに孝明天皇陵を守るための御陵衛士(ごりょうえじ)となって新選組を離脱し、近藤らと対立したが大正8年まで生きた。 →本文へ
  6. 篠原泰之進:新選組での役職は諸士調役兼監察。三木三郎同様に御陵衛士となって新選組を離脱し、鳥羽・伏見の戦いに官軍側で参戦。明治44年没。 →本文へ
  7. 手を切る:その後、新選組勘定役と称する者が西村芳三郎を通じて再び金1千両の金談を持ち掛けている。しかし、このときは一人5両と酒代を渡して帰ってもらい、これで新選組とは完全に手を切った形となった。 →本文へ

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.64|2024 Autumn より

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