三井ヒストリー

三井グループのルーツ

三井高利の生涯 後編

長兄・俊次の死、また奉公に出ていた息子たちの成長により、三井越後屋の江戸進出という高利の宿願が果たされるときがきた。後編では江戸における三井越後屋の開業と発展、また松坂にいる高利から江戸や京都に送られた経営の指示、商売上のアイデアなどにフォーカスするが、この時期の越後屋の商法については本記事ですでに多く触れてきた。今回は時系列に沿って概略を記述する。

三井越後屋の江戸進出

江戸進出を決断した高利は、江戸で奉公している息子たちに準備資金を送るとともに、商売を始めるための店を探すように手紙で指示。また俊次の店(釘抜三井)の仕入れ方として京都にいる長男・高平には、商品仕入れの拠点となる店舗の準備を命じた。江戸で借り受けたのは本町一丁目の店で、間口は九尺(2.73m)ほど。後の越後屋の規模を思えば小さな店からの出発であった。

高利は自身の息子たちばかりでなく、松坂から有能な若者たちを江戸に送って修業させ、開業の準備を進めていた。こうして三井越後屋は延宝元年(1673)8月に開業。高利の次男・高富と三男・高治を中心に、手代ら使用人の総勢は15名ほどだったという。

同時に、京都の呉服仕入店も室町蛸薬師町東側の店舗を借り受けた。こちらは長男・高平以下8名程度の使用人を抱え、高利も四男・高伴を伴って京都に出向いている。

ところで、当時の江戸本町一丁目は江戸随一の呉服店街であった。高治の『商売記』によれば、江戸店の開業当初は苦労の連続だったという。確かに新参の小さな店がいきなり得意先を獲得できるわけがなく、しかも開業当初は商品の在庫も足りなかった。そこで高利が取った経営戦略は、江戸で増え続けている商人や町人を相手にすることであった。

まずは小売店や行商人、切売の売子などへの販売を徹底するよう息子らに申し送った。また、京都での仕入れについても、安値であればたとえ江戸からの注文がなくても大量に買い付けるよう高平に指示。そして江戸の店ではこれらの商品を現金で売り、すぐに売れないときには質屋で現金に換えるようなこともした。こうして仕入れ量を増やして江戸に送り込み、さらに高富や高治、使用人らの努力もあって業績は少しずつ向上していった。

商売が順調になったことから、延宝4年(1676)には江戸本町二丁目にも新店を開いた。こちらは高富が責任者となり、さまざまな商売の取り組みを開始する。

三井商法の代名詞ともいえる「現金(銀)店前売り」を始めたのもこの頃からといわれる。このアイデアは三井越後屋が始めたとされることがよくあるが、実はすでに伊豆蔵(三井の親戚筋)が行っていて、高富がそれを採り入れて始めたということのようだ。

従来からの呉服商の販売は「見世物商い」といって、店の者がいくつかの商品見本をもって顧客の元に出向いていた。しかし、顧客にとってそれは商品の選択肢が少ないことを意味し、掛売だから品物を渡しても現金はすぐ入ってこないなど多くのデメリットがあった。

一方、「現金店前売り」の場合、客は店で商品を選ぶので選択肢が豊富であり、店側はその場で現金が入るので、その後の仕入れも円滑になるといったメリットがあった。

しかも、店前売りは見世物商いや屋敷売りしていた他店の得意先を取り込み、顧客の新規開拓にも結び付いた。加えて高利は、高富らに武家屋敷などへの掛売はしないように申し渡している。

同業者の嫌がらせと駿河町移転

三井越後屋が従来の呉服商売の慣行を打ち破って繁盛し始めると、その成功を羨む同業者の間で妬みの感情が膨らんだ。そうした空気が充満する中で事件が起きた。

三井越後屋が有力な武家の求めに応じて大口の販売を行ったところ、その武家を得意先としていた呉服所の取引を三井が横取りしたとされ、怒りを買って江戸本町の呉服屋仲間から仲間外れの扱いを受けてしまったのである。

彼らの怒りは収まらず、江戸での呉服商間の取引が中止となった。ただ、江戸では孤立したものの、三井を悪く思っていない京商人から仕入れや為替の工面ができ、手代や使用人たちもよく結束していたため、商売に大きな支障が出ることはなかった。

この時期、高利によって現在も用いられている三井の紋章「丸に井桁三」が制定されている。また、延宝8年(1680)に高利は剃髪し、「宗寿」と号している。

商売に大きな支障はなかったものの、同業者からの営業妨害は執拗だった。さすがに越後屋の面々も困り果て、店の移転を決断。高利の妻・かねの実家である中川三郎兵衛らの協力で駿河町に家を購入し、普請なども極秘のうちに進め、天和3年(1683)4、5月頃に新店を開いた。

移転が完了すると、引札(宣伝用のチラシ)を使って江戸中に三井の商法「現金安売り掛値なし」を宣伝した。これが評判を呼び、駿河町の店は開店と同時に夥しい客入りになったという。その年の秋には本町二丁目の店も合流し、これに合わせて両替店も開設している。

一方、京都の仕入れ店も開店の数年後には同じ町の南側に移転し拡大。貞享2年(1685)11月には店舗を確保して「上之店」と呼ばれる西陣織物の直売仕入れ店(*1)を開いた。

西陣織物の買付に際して高利が指示したことは、買付時に現金決済するのではなく、西陣織の機屋に先払い(前貸し)する「先金廻し」という方法だった。これによって品物を安く計画的に仕入れることが可能となり、また機屋に対して三井は支配する側に立つこともできた。その翌年(貞享3年/1686)、65歳になった高利は郷里松坂で行っていた両替業の本拠を京都に移し、自身も移り住んでいる。

幕府の呉服御用拝名

駿河町移転から2年後の貞享4年(1687)、三井越後屋は将軍からの下賜品の調達を行う「幕府払方御納戸御用」を拝命。その後、将軍家の衣服調達を担う「元方御納戸御用」にも任命された。これは三井越後屋の評判が幕府中枢にまで届いていたことを物語る出来事で、『商売記』には「願い出てもいないのに召し出されて御用を命ぜられたのは前代未聞」と記されている。

この幕府御用達の拝名は、駿河町移転後も続いていた同業者の嫌がらせを頓挫させ、以後三井越後屋の商売が妨害を受けることはなくなった。

元禄4年(1691)、高利の三井越後屋はまた、両替業のほうでも「大坂御金蔵銀御為替御用」という幕府の金銀御用達の地位を得た。これは大坂~江戸間における幕府の現金輸送を三井が為替で担うというものである。多額の幕府公金を預かって運用することができたため、そこに莫大な利益が生まれ、やがて両替店は呉服店から独立して大きな成長を遂げていく。

井原西鶴の『日本永代蔵』によると、高利は「現金安売り掛値なし」以外にもさまざまな商売の新機軸を打ち出したとされる。店には販売する布地や品物の種類ごとに担当する専門の手代を置き、反物は求めに応じて必要な分の切り売りをした。また店内に職人(お針子)を置き、買った布地をその場で製品に仕上げるというサービスなども行っている。ほかには見られない三井商法は大きな話題を呼び、店は連日大賑わいとなった。元禄年間に入ると、三井越後屋は江戸の呉服店を拡張し、京都の呉服仕入れ本店と上之店、両替店に加え、大坂にも進出して高麗橋一丁目に呉服店と両替店を開いている。

商いは楽しみ

高利は趣味や道楽に一切興味を示さず、商売そのものが趣味であり楽しみであった。また、高利は奉公人を重視し、勤務や生活上の規律は厳しかったものの、まじめに精進する者には正当で温かい待遇を行ってきた。

江戸店の開業以来、数々打ち出されてきた新商法が注目されるが、越後屋が繁栄した背景にあるものは、本質的にはやはり高利自身の商いに対する信念なのだろう。それが店内の結束を高め、顧客の信頼を生み、後世の三井越後屋発展の礎となった。

元禄6年(1693)3月、高利は病に倒れた。それを機に高利が腐心したのは、息子たちの累代で財産を散逸させないことであった。息子たちには財産分与ではなく財産を共有し、ともに運用していくことを望んだ。その上で利益配分の比率を兄弟ごとに決めるという遺書『宗寿居士古遺言』を残した。

元禄7年(1694)5月6日、三井高利永眠。

享年73歳。墓は京都の真如堂で、高利は病気の最中に真如堂を参詣して気に入り、この地を墓所にしたいと言い置いていたという。(完)

三井高利の生涯 年表

和暦(西暦) 年齢 出来事
元和8年(1623) 高俊、殊法の四男として伊勢松坂に誕生
寛永10年(1633) 12 父・高俊没
同12年(1635) 14 松坂出立。長兄・俊次の江戸本町四丁目店に奉公
同16年(1639) 18 三兄・重俊が松坂に帰郷
高利は江戸本町四丁目店の支配人に
慶安2年(1649) 28 江戸本町二丁目の角屋敷を800両で購入
重俊死去。高利は松坂に帰郷
かね(15歳)と結婚
承応元年(1652) 31 松坂本町にて屋敷を60両で購入
同2年(1653) 32 長男・高平誕生。以後次々子宝に恵まれる
寛文7年(1667) 46 高平(15歳)、俊次の店に奉公
同8年(1668) 47 次男・高富(15歳)、続いて江戸に奉公
同10年(1670) 49 高平が八郎右衞門を称し、
釘抜三井京都店にて仕入れ方を見習う
延宝元年(1673) 52 長兄・俊次、京都にて没
江戸本町一丁目に間口九尺の呉服店開業
京都室町蛸薬師町東側に呉服仕入れ店を開く
同4年(1676) 55 江戸本町二丁目に新店舗を開業
母・殊法没(87歳)
京都仕入れ店を南寄りに移転
同5年(1677) 56 この頃、店の暖簾印を「丸に井桁三」に変更
同8年(1680) 59 剃髪して「宗寿」と号す
天和3年(1683) 62 江戸本町一、二丁目の呉服店を駿河町南側に移転
開店に際して引札(ちらし)を配り、大々的に宣伝
「現金安売り受り掛け値なし」で売上増大
呉服店の西側に両替店を新設
貞享2年(1685) 64 西陣織物の直売店を新猪熊町に移転し「上之店」とする
同3年(1686) 65 松坂の両替事業を京都に移転
京都新町六角下ル町西側に両替店を新設
同4年(1687) 66 幕府払方御納戸御用拝名
江戸駿河町に綿店を新設
江戸と京都に御用所を設置
元禄2年(1689) 68 江戸両替店が本両替仲間に加入
同3年(1690) 69 大坂御金蔵銀御為替御用拝名
同4年(1691) 70 大坂高麗橋一丁目に呉服店と両替店を開設
同6年(1693) 72 3月、病に倒れる
9月、遺書の腹案を示し息子たちと協議
同7年(1694) 73 2月、遺書に遺産の割歩を記す
5月6日、高利永眠
同9年(1696) 10月、高利の妻・かね没(62歳)
  1. 上之店
    もともと西陣の一角にあったものを新猪熊町に移転した→本文へ

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.56|2022 Autumn より

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