コラム「三井を読む」

豊田自動織機への三井の支援

三井と豊田佐吉(後編)

動力織機を発明した豊田佐吉を、その製造・販売において旧三井物産が支援する動きは大きな話題を呼んだ。以来、戦争による国際情勢の変化やそれに伴う不況の影響など両者の間には数々の困難が訪れたが、それでも旧三井物産の豊田佐吉に対する支援の姿勢は一貫していた。後編は動力織機の進化と自動織機の完成までを綴る。

井桁商会技師長を辞任

開業当初の井桁商会の出足は好調に見えた。しかし、工場を操業し始めたとき、折しも中国では義和団事件(*1)が勃発。政情不安となって中国への綿布輸出が振るわなくなり、さらに国内不況のため会社経営が悪化した。

また、会社側が織機の量産を主張したのに対し、豊田佐吉(以下、佐吉)は自身の発明による動力織機は完成前の過渡的な製品とみなし受注を限定しようとした。両者間の齟齬から思いどおりの研究がしにくくなった佐吉は、明治34年(1901)末に技師長を辞任。自身の豊田商店を「豊田商会」と改称し、豊田式織機の改良に没頭する。

こうした綿布輸出の不況は井桁商会のみならず、旧三井物産(以下、三井とのみ表記)の名古屋支店においても大きな打撃であった。そのため、一時は名古屋支店の存在意義さえ論じられたが、三井の綿布取り扱いと豊田式織機の支援戦略は変わることなく、将来の市場の拡大を期待して事業は長期的に継続されていった。

1927年/トヨタ自動車「企業アーカイブス」より

発明の進化と新会社の設立

豊田商会に戻った佐吉は、それまで小幅(*2)・半木製だった織機を鉄製に変え、さらに広幅(*3)の力織機へと改良を進めていく。

また、「(*4)」そのものを交換する「杼換式」の研究開発に取り組み、明治36年(1903)、機械を止めずに緯糸を自動的に補充する自動杼換装置を考案。それを装備した無停止杼換式の豊田式鉄製自動織機(T式)を製作した。

さらに、翌年には緯糸の補充装置と経糸が切れた際の停止装置の開発に成功し、同年11月に特許を取得。ただし、この鉄製の自動織機は使用中にさまざまな問題が露出し、改善の余地も多く残されていた。そこで佐吉は、まず従来型の力織機の改良から取り組み直し、着実に成果を挙げていった。

明治38年(1905)早々、佐吉は木鉄混成ながら堅牢で旧式より性能が格段に優れた「三十八年式」の力織機を製造。翌年10月にはさらに能率と品質を高めた全面鉄製の「三十九年式」へと進化させて発売した。

この頃には三井も「満州」向けの綿布輸出の促進、国内製織業の力織機化、そのための織機製造会社の発足という大きな戦略的構想を本格化させている。その対象として豊田佐吉と豊田式織機の発明・発展に期待することになった。

明治39年(1906)は豊田商会が明治時代に最も発展した年ともいえる。この年の夏から秋にかけて綿糸布の市況は輸出を中心にブーム的といえるほど高まっており、そこで佐吉は家内工業向けに「軽便織機」を考案。廉価で販売すると、注文が殺到するヒット商品となった。

それらを機に、同年末には豊田式織機株式会社(現・豊和工業株式会社)の設立の運びとなった。三井の主導のもと、多額の資金調達や製品開発を行うとともに、中国大陸向けの大量輸出を促進し、さらには国内織物産業の全面的な力織機化を促していく戦略的な試みがそこにはあった。

新会社の滑り出しはまずまずで、開業半年後の7月、三井の支店長諮問会でも日本の織物業の先行きと豊田式織機支援の現状については楽観的であった。

ところがその諮問会の後、アメリカから国際的な商品市況が悪化に転じ、それがヨーロッパから東洋に波及。明治41年(1908)になると国内景気も日露戦争後の反動が重なって恐慌に近い状態となる。綿織物業界は輸出の不況から内需も滞り、豊田式織機株式会社は開業約1年で受注が減少に転じた。

こうした中、同社の大黒柱たる豊田佐吉が常務取締役の辞任を余儀なくされる事態が起きる。直接の要因には同社の3カ年以上にわたる業績不振が挙げられるが、その裏には佐吉の発明優先主義に対する批判、佐吉とほかの役員との間の不和などの問題も潜んでいた。

明治43年(1910)4月、臨時緊急重役会議が開かれ、その席で佐吉は役員を辞職。これは佐吉と同社を支援する三井にとっても想定外の、衝撃的な出来事であった。

海外視察で見分を広める

辞任から1カ月後の5月、佐吉は欧米へと旅立った。目的は織機の視察と比較研究、豊田式織機のアメリカにおける特許取得と普及にあったが、同時に豊田式織機の辞任に対して冷却期間をおく意味も含まれていた。三井は米欧各地の支店を通じ、佐吉の視察旅行を全面支援している。

アメリカで佐吉はボストンを中心に機業地の織機業者を見学した。アメリカの製織工場と実験設備は日本とは桁違いの規模で佐吉を驚かせたが、そこで使用されている織機については欠点も目につき、佐吉は自らが開発した織機に対する自信を深めるようになった。

また、アメリカでは化学者の高峰譲吉博士をニューヨークの邸宅に度々訪ね、懇談を重ねている。タカジアスターゼの創製やアドレナリン結晶の抽出など、世界的業績で知られる高峰博士は発明に伴う諸々の障害を経験しており、その話に佐吉も大いに勇気付けられたという。

帰国後、佐吉は明治44年(1911)に現在の名古屋市西区栄町(現在のトヨタ産業技術記念館の地)に用地を買収。独立自営の織布工場建設に着手し、社名は豊田自動織布工場とした。工場は大正元年(1912)秋に操業を開始したが、資金難でもあったため、佐吉はかつて辞任に追い込まれた豊田式織機株式会社と自身との間の特許権使用に関する契約を改め、特許権の同社への譲渡とその対価の一時金による支払いを求めた。ここにおいて三井が仲介に乗り出し、豊田式織機と豊田佐吉、そして三井の三者間の関係は全面的な見直しと修復が行われた。佐吉はようやく自身の会社である豊田自動織布で、心おきなく自動織機の発明に専心できるようになったのである。

また、佐吉は大正3年(1914)に紡績設備を導入し、豊田自動紡織工場に改組。事業は第一次世界大戦下の好況にも恵まれ、年を追うごとに拡大した。経営を円滑に行うため、大正7年(1918)、豊田自動紡織工場の事業と資産は株式会社の経営に改組され、豊田紡織株式会社となった。

豊田自動織機の完成

自社の経営安定を見定めると、佐吉は単身中国に渡って上海から漢口までの主要都市を歴訪。当地における市場の将来性などを見て回った。そして大規模な紡績と織布工場の必要性を確信すると上海に工場用地を手に入れ、大正9年(1920)に建坪約1万坪の大紡織工場を完成させる。

翌大正10年(1921)、豊田紡織は上海での事業を株式会社豊田紡織廠として独立させる。佐吉は上海と名古屋を往復しながら、長男の喜一郎や部下とともに研究に没頭した。

また、現在の刈谷市に豊田紡織刈谷試験工場を新設して営業的試験を幾度も重ね、大正13年(1924)、ついに無停止杼換式豊田自動織機(G型)の完成に至った。

G型織機は高速で働く自働杼換装置を備え、各種の織布過程も自動化され、生産性や織物品質で驚くほどの高性能を発揮した。すると、世界の繊維機械業界をリードしていた英国のプラット・ブラザーズ社がその優秀性 に着目。昭和4年(1929)に同社との間で「日本・中国・米国を除く国々でG型自動織機を製造・販売する権利を与える」という契約が結ばれた。日本人の発明が世界に認められるとともに、外国企業から特許権譲渡を求められたことは、当時において特筆すべき快挙といえる。

昭和5年(1930)10月、佐吉は脳溢血から急性肺炎を引き起こし、発明主義を貫いた63年の生涯を閉じた。井桁商会から始まる三井と豊田佐吉との結び付きは、豊田自動織機がトヨタ自動車工業を産み、トヨタ自動車へと発展する過程でも継続され、今日の三井物産との関係強化につながっている。

トヨタ産業技術記念館(愛知県名古屋市西区)は、豊田佐吉の発明品として記念館のシンボルとなった「環状織機」が展示されている。

総合的性能と経済性で世界一と評価された「無停止杼換式豊田自動織機(G型)」(トヨタ産業技術記念館)

  1. 義和団事件
    清朝末期の排外的農民闘争。義和団は宗教的な秘密結社で、西太后がその叛乱を支持して欧米列国に宣戦布告した。日本も連合国側の一員として兵力を投入している→本文へ
  2. 小幅
    和製織物の幅のこと。幅約36cm→本文へ
  3. 広幅
    反物の幅が普通幅よりも広いもの。幅約72cm→本文へ
  4. 杼(ひ)
    シャトル。経糸の間に緯糸を通すのに使われる道具→本文へ
  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.53|2022 Winter より

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