三井ヒストリー

歴史的・文化的に価値ある東京の三井家墓所

三井家野方墓所

三井家は一族の先祖菩提、奉公人やその家族の先祖菩提を弔う目的で、本所の真盛寺を江戸における菩提寺としていた。 真盛寺は大正年間に杉並に移転され、それに伴い同寺地内の三井の墓所も中野区上高田(野方)に移転開基された。 野方墓所は長年非公開であったが、近年になり、改めてこの地の歴史的・文化的な価値が注目されている。

江戸における三井家の菩提寺

京都の真正極楽寺真如堂は、比叡山延暦寺を本山とする天台宗の由緒ある古刹で、三井家の元祖・三井高利とその妻・かねをはじめとした三井家累代の墓所がある菩提寺として良く知られている。一方、松坂では来迎寺、江戸では本所の真盛寺が、三井家の菩提寺と定められた。

真盛寺は天羅山養善院と号し、天台真盛宗西教寺(三重県)の別院である。同寺の記録(江戸本所真盛寺之記)によれば、江戸での天台真盛宗布教のため、最初は寛永8年(1631)に湯島天神前に開創されたとなっている。その後、天和3年(1683)に谷中清水町、元禄元年(1688)に本所業平に移転されたが、本所移転の際には室町家初代の三井高伴(三井高利の4男)が移転再建を大いに支援した。

本所への移転を機に、真盛寺は江戸における三井家の菩提寺となる。真盛寺には高利夫妻の墓碑をはじめ、三井十一家の歴代法名を刻した墓碑や各家の墓碑のほか、越後屋奉公人の惣石塔、手代たちの墓などがあり、江戸で没した三井同族や奉公人が弔われていた。

墓所を中野に移転

明治以降、近代になると本所の地は徐々に都市化が進み、また工業地帯となって周辺の環境悪化が目立つようになってきた。また、真盛寺のあった場所は隅田川流域の低地であったことからしばしば浸水被害にも悩まされていたという。 そのため、真盛寺は大正11年(1922)に杉並(現在の杉並区梅里)に移転することとなる。その折に、三井家も三井十一家共同の墓所を求め、同寺地内の墓を中野区上高田に移転した。

三井家墓所の移転計画そのものは、実は大正11年よりも前からすでに進められており、大正4年(1915)7月に上高田で6338坪という広大な土地を取得している。同年9月には、東京府よりこのうちの2561坪を墓地に使用する許可を得た。

墓地移転後は、大正14年(1925)に本堂、位牌堂、休憩所などからなる「野方齋堂」を建築し、真盛寺の執事が常駐。昭和11年(1936)には齋堂の新館も建設し、充実した設備を敷地内に有していた。

野方齋堂は昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失してしまうが、それまでは三井家同族や奉公人の先祖を供養する重要施設として、折々に法要が営まれていた。

三井家を支えた人々も供養

戦後、GHQによる財閥解体を経て、野方墓所の広大な敷地の一部は日本電信電話公社(現NTT)に割譲されることとなる。

また、昭和40年(1965)には、敷地の一部が三井文庫の建設用地として寄贈され、現在に至っている。野方墓所の敷地全体は戦前と比較すればかなり縮小しているが、墓地のエリアそのものの敷地や配置は変わっていない。

現在、野方墓所内には、近代三井十一家のうちの五連家である松阪家・永坂町家・五丁目家・本村町家・一本松町家の各墓地をはじめ、三井高利・かね夫妻の墓碑、遠祖五輪塔(高利の父母・祖父母・先祖の供養塔)、縁故者の墓、惣石塔(江戸時代の三井の店で奉公中に亡くなった奉公人の供養塔)、中西氏墓(三井初期の重役であった中西宗助一族の供養塔)、地蔵尊などが置かれている。

京都・江戸・大坂の三都に店舗を広げていた三井は、それぞれの土地に奉公人供養の惣石塔を建てており、京都の真如堂に8基、大阪西方寺に2基、野方墓所に2基残存している。

野方墓所にあるものは、寛保3年(1743)と弘化4年(1847)につくられたもので、合計877名の戒名が刻まれている。このことから江戸期における豪商と奉公人の関係性、また経営のあり方などが偲ばれ、三井同族のみならず、三井家を支えた人々を供養する場としての公的な性格をここに見出すことができる。『中野区史』には区内の主な名墓のひとつとして紹介されている。

野方墓所は三井家の管理のもと、長年非公開とされてきたが、近年同地の歴史的・文化的な価値が注目されるようになり、令和元年に初公開された。今後は年に1回一般公開されるほか、学術・文化・教育などを目的とした団体の「学術公開」も受け付ける。

三井家の元祖・三井高利と妻・かねの墓碑 三井文庫提供)

2020年10月の公開日には、1日で約270名が訪れ、高利夫妻の墓碑に手を合わせた

遠祖五輪塔。左から高利の父母、先祖、祖父母の供養塔

三井の店で奉公中に亡くなった奉公人の供養塔(左の2基)。貞亭元年(1684)から明治6年(1873)まで877名の戒名が刻まれており、学術的価値も高い

昭和11年に増設された野方齋堂新館の外観と内部の様子

野方基所平面図(昭和8年、三井文庫保管) (薄ピンク)現在の敷地 (ピンク)現在の墓域 (青)野方齋堂の建物群。戦時中に空襲で焼失した上記と(緑)を合わせた区域が昭和8年当時の墓所全体

写真提供:公益財団法人 三井文庫/三友新聞社
三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.50|2021 Spring より

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