三井ヒストリー

石炭からはじまる三井の化学事業

三井と化学工業の発展(前編)

明治維新の後、国の近代化と国力増強の一環として、明治政府は化学工業の振興に力を入れていった。三井も炭鉱事業の流れの中で化学工業の各分野に進出し、それは現在のグループ企業に引き継がれている。三井と化学工業の関わり、そして発展についてその歴史を紐解いてみよう。

化学工業とは

現代に生きるわれわれは、さまざまな工業製品に囲まれて生活している。

身近にあって、生活に便利な製品をイメージするならば、多くの人は車やパソコン、スマートフォン、液晶テレビをはじめとする各種の家電製品などを思い浮かべるのではないだろうか。これらは工業製品の中でも、加工組み立てを行う産業分野によってもたらされるものだ。

一方、同じ工業製品であっても、化学工業による場合、直接個々の消費者に向けて製造されている製品はそう多くない。洗剤や化粧品、医薬品など一部の生活必需品は別として、原料や素材として流通するケースがほとんどである。

だからといって、消費者に無関係というわけでもなく、その原料や素材の良し悪しは、われわれの身近に供給されるさまざまな製品の機能や性能に影響を及ぼしている。つまり、化学工業は加工組立をされる前のものづくりを支える、基礎的な産業ということになる。

化学工業の始まりと発展

近代化学工業の始まりは18世紀の後半、イギリスの産業革命の中に見ることができる。

1760年代にイギリスは、ソーダ灰や硫酸を工業的に生産する技術を確立した。それは主に繊維の漂白が目的であったが、それまで草木からの灰汁や、ミルクからつくる酸など天然素材で行っていたことを、工業的につくられた素材が代替できるようになったのである。

化学工業といってもまだ初歩的な段階だが、それでも長い間天然素材の性質に頼っていた工程が、人工の素材で行えるようになった意義は大きい。これをきっかけに、イギリスで繊維産業は飛躍的に発展していく。同時に無機化学工業の技術も急激に進み、この分野においてイギリスはゆるぎない地位を築いていった。

それから100年後の1860年代に入ると、ドイツでコークスの生産や合成染料工業を中心とする有機化学工業が成立する。コークスは製鉄に使用されることから、その生産は鉄鋼業の発展とともに盛んになり、合成染料工業はコールタールを回収する技術を基盤にして発展していった。

1860年代といえば、当時の日本は幕末から明治に移り変わる激動の時代でもある。近代国家を建設し、早く諸外国に追いつきたい明治政府としては工業力の向上も急務とし、イギリスから技術者を招聘するなどして工業化を推進。もちろん、そこには化学工業も含まれていた。

わが国の化学工業は、明治5年(1872)からの大阪造幣寮における硫酸製造が始まりとされている。これは貨幣を鋳造するための金・銀の分析、精製に使用することが目的であった。ちなみに、このときの造幣寮のナンバー2である造幣権頭という役職は、後に旧三井物産初代社長となる益田孝が務めており、明治天皇の巡幸にも対応した。また、「化学はすべての知識の根源であるから大いにやらなければならぬ」として、寮内に化学工業を教える学校を設けている。

明治4年(1871)に行われた大阪造幣寮開業式の模様(国立公文書館所蔵)

明治13年(1880)には、紙幣や公債証書などの洋紙製造のため、大蔵省印刷局でも苛性ソーダの製造を開始。これによって酸(硫酸)、アルカリ(苛性ソーダ)という、最も基礎的な化学工業品が国内で製造できるようになった。

また、陸軍は火薬を、工部省ではセメントや耐火煉瓦、ガラスの製造などを行い、民間においても明治6年(1873)以降、小規模ながら石鹸、マッチ(8年)、顔料や塗料(14年)などの製造が行われるようになっていった。

民間の化学工業と三井

明治13年、明治政府は工場払下概則を公布し、官営工場の民間への払い下げを開始する。それにより、硫酸や苛性ソーダなどの製造技術が徐々に民間に移転し、後の日本の化学工業発展の礎となっていった。

明治20年(1887)には高峰譲吉、渋沢栄一、そして前述の旧三井物産社長、益田孝によって東京人造肥料会社(現・日産化学)が設立された。これはわが国の民間企業において、初の本格的な化学工業といっていい。

明治20年(1887)に設立された東京人造肥料会社の工場跡地に建つ化学肥料創業記念碑(東京都江東区大島、釜屋堀公園内)。渋沢栄一、益田孝らが人口増加による食料問題が起きることを見越し、肥料の使用で増収を企図、欧米で化学肥料を学んだ高峰譲吉とともに東京人造肥料会社を設立した業績を称えている。裏面には記念碑建設発起人として益田太郎(孝の長男)、三井五丁目家2代の高昶(たかあきら)の名前も記されている

益田孝の口述を元にした『自叙益田孝翁伝』(長井実・編)には、同社設立の経緯が記されているので少し引用してみよう。

「高峰譲吉がアメリカから帰ってきた。(中略)ニューオーリンズから近いフロリダに非常に大きな燐砿がある、昔、獣類の住んでおった広い土地がばっさり潰れて、その獣類の骨が燐砿になったのであるが、それを日本に持って来て肥料にするとよい、あちらでも使っているが、ことに日本のような火山灰の土地には非常によいという話を(高峰が)盛んにした。(中略)
渋沢さんと高峰と私と三人で相談をして、これをどうか物にしようじゃないかと言うて会社を作ることになり、明治二十年の三月、私は高峰と一緒に、ヨーロッパを経て、アメリカへ燐砿の買入れや機械の買入れなぞに出掛けた。(中略)
そして深川の釜屋堀に工場を作った。これが東京人造肥料会社で、日本における人造肥料会社の元祖である」

三井は日露戦争の後に、三井鉱山の事業として亜鉛精錬や合成染料を中心とする化学工業に本腰を入れて乗り出していくことになるが、人物との関わりでいえば、この東京人造肥料会社が三井と化学工業の最初の接点といえるだろう。

明治後半以降の
日本の化学工業

日本は火山国であるだけに、硫黄や硫化鉱は資源として豊富に産出する。化学工業の中でも硫酸工業の分野に関しては、時代が下るにつれてこれらの資源をベースに発展をしていくが、一方で苛性ソーダに関わる生産については、原料となる工業塩資源に恵まれていないため多くを輸入に依存する状況であった。

しかも、無機化学工業の分野では、本家のイギリスが長い間技術独占や市場支配を続けており、国内での本格的な事業展開はなかなか進まなかった。

有機化学工業の分野については、明治も後半になると、国内での鉄鋼業や都市ガス業の発展に伴って石炭乾留からコールタールなどの回収が進み、コールタールピッチ(当時は練炭などの材料)やクレオソート油(主に防腐剤に使用)などの生産が開始されるようになる。

しかし、有機化学工業でも合成染料の分野となるとドイツが圧倒的に強く、国産化はずっと先のこととなる。ただ、カーバイド(炭化カルシウム)工業に関しては、明治30年代以降に化学肥料を主力市場として発展していった。

この時期の日本の化学工業は、以上のように徐々に進展してはいるものの、まだまだ未成熟な状態で、国内での生産量もわずかであった。

一方で世界を見渡すと、化学工業はイギリスからドイツ、そして新興国のアメリカへと産業の中心が移りつつあった。第一次世界大戦前までのわが国は、有機・無機とも化学工業によって製造される原料をこれらの国から輸入せざるを得ない状況だったのである。

三井の化学工業については、明治21年(1888)に官営三池炭鉱の取得に伴うコークスの生産を通じてスタートし、その後多様な発展を遂げていく。その中で重要な意味を持つ化学事業は、セメント(小野田セメント/現・太平洋セメント)、カーバイド工業(電気化学工業/現・デンカ)であった。なかでも電気化学工業は、後に三井鉱山の合成アンモニア・硫安製造への進出に際して重要な役割を担うことになる。(次号に続く)

  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.48|2020 Autumn より

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