コラム「三井を読む」

三井文庫・由井常彦文庫長に聞く

エピソードが語る
「人の三井」
第三回・琢磨(後編)

鉱山事業をはじめ、三井合名会社理事長として昭和初期まで三井を牽引した團琢磨は、日本工業倶楽部の初代理事長を務めるなど三井の枠を超えた日本経済界のリーダーでもあった。前回に引き続き、公益財団法人三井文庫の由井常彦文庫長に、團琢磨にまつわる数々のエピソードを語っていただいた。

三井家当主から
絶大な信頼を寄せられる

――團琢磨は三井合名会社社長の三井八郎右衞門高棟と一緒に外遊したことで、高棟の大きな信頼を得ました。

【由井】 明治43年(1910)のことですね。團は益田孝の強い薦めで、高棟に随行して欧米に行きました。この旅で二人の人間関係がすごく良くなった。二人の仲を近づけようというのは益田のもくろみですが、それがうまくいったのは大きな成果ですね。

三井高棟と團琢磨ら欧米視察時の一行。後列中央が高棟、前列左が團。7カ月にわたる旅で、高棟は團の能力や人柄を知って信頼を深め、その後の三井を高棟・團体制で率いる布石となった

この旅で僕が團を偉いと思ったのは、高棟に随行してはいるけれど、ちゃんと自分の仕事をしていることです。ヨーロッパではベニスに行って4、5日滞在し、それからフランスに行くスケジュールでしたけれど、團はベニス観光はご当主が好きにやればいいって、自分は船や鉄道を乗り換えて、超特急でスウェーデンに行くんです。

このころ、王子製紙が三井の手で再建される話がすでにありました。だから團は、スウェーデンでパルプの調査をしてきた。北海道の木材がパルプ材としていいかどうかを確かめるのが一番の目的です。それでまた急いで戻ってきて、高棟がベニス見物を終えてフランスに向かうとき、確かパリに着くより前に合流しています。

イギリスではカーディフ港から積み出された石炭が世界を支配していましたから、そこに高棟を連れて行って、石炭を船に載せるまでの輸送過程などを見せています。三池の合理化について理解させようというんだね。それで後年、團は三井合名会社理事長に就任し、益田は相談役に退いて、後をまかせたということです。

――その後、團は新しく設立された日本工業倶楽部(*1)の理事長にも就任します。

【由井】 日本工業倶楽部は設立計画が発表されたら、当時の実業家たちはみんな大賛成。三井や三菱をはじめ、ほかの財閥もたくさん出資したからお金もすぐ集まって、大々的にスタートした。そのときに團が異議なく最初の理事長に就任するわけですね。これで團は産業界全体のリーダーとなり、財界人として傑出した存在になりました。

工業倶楽部発足の一つの狙いとして、立派な会館を作ろうというのも最初からあったんですよ。国際的な会議などをするには立派な会館がなくちゃ駄目だということで、今の大手町にあるのと同じ場所に会館を建てました。

会館は建物の上に男女の労働者の像を載せています。当時は鉱山と繊維が日本を代表する工業だから鉱夫と織工の像。こういうのは世界に例がなく、外国だと普通はお金を出した人の像か何かが飾られますけれど、日本では従業員。こういうところにも團の考えが反映されていますね。

日本工業倶楽部の会館上の像(三友新聞社撮影)

――團は国際的にも活躍していますね。

【由井】 前回話した大正10年から11年の英米訪問実業団(團琢磨が団長)での活躍が有名ですが、昭和4年に日本で開催された万国工業会議も忘れてはいけません。この会議は米国機械学会などに強く勧められて日本で開催されることになったもので、團はその副会長として中心的役割を果たしています。42カ国、671名の海外会員が参加し、提出された論文は813篇、それが12の部会で討論されました。日本としては空前の世界的会議と言っていいでしょう。会議の総裁に秩父宮殿下が、名誉会長に浜口首相が就任していることからも国を挙げての催しであったことがわかります。学術的な交流はもとより、参加した海外の一流の学者たちに日本の鉱工業発展の姿を見てもらい、日本の文化や自然についても理解を深めてもらう大変貴重な機会でした。MITのリチャード先生が来日されたのもこの会議への参加を兼ねてでした。

男爵位を授与された
日本を代表する経営者

――團は男爵に叙せられています。

【由井】 財閥の当主以外で男爵になった人はそう多くないと思いますよ。経営者で主な人は明治に渋沢栄一、大正時代に益田孝とか。その後あまりいなかったんですけれど、團は昭和になって(*2)もらっています。

伊藤博文が爵位を出すことに決めたとき、徳富蘇峰(*3)はものすごく批判した。せっかく日本は平等になったのに、また階級制度を持ち込んだのは大失敗だってね。でも、ああいう制度を作らないと国際的に交際しづらかった面もある。つまり、爵位を持って外国を訪問すれば、向こうも同等レベルの人が応対する。

こっちが男爵なら当然向こうも男爵の人が迎えてくれるんだから、高棟が世界各国を回って来たというのは、そういう国際交流の意義もあったんだと思いますよ。

――当時の三井の指導層では茶の湯が盛んでした。團はどうだったのでしょうか。

【由井】 益田を中心に三井のリーダーたちはみんな茶の湯をやっていたけれど、團はあまり興味がなかったらしい。ただ、やっぱり集まりには出なきゃまずいと思ったらしく、大正時代になってからお茶の勉強をして狸山という号もつけた。道具も買って、團は結構良い物を集めていたようです。

もともと團は、美術には興味があったんですよ。明治になって、日本の伝統的な美術・文化財の価値を見出したのはボストン出身のフェノロサ(*4)ですが、團はフェノロサの友人で、そのときに團も一緒に美術品には凝ったことがあるんですよね。

その後ちょっと間が開きますが、大正7年くらいからまた美術品の趣味が復活し、相当持っていたようです。だけど、昭和20年の東京大空襲のときにみんな焼けてしまいました。

――團琢磨は昭和7年(1932)に血盟団員の凶弾に倒れ、帰らぬ人となりました。

【由井】 これについては諸外国の人もずいぶんショックを受けたそうです。当時のテロは政治家とか軍人とか皇帝などが対象で、ビジネスマンが対象になるなんてことはあり得ない。だから最初は各国で非常に不思議がられた。もちろん、亡くなったこと自体非常に惜しまれましたが、そんなテロがあっていいのかっていうことです。

伊玖磨さんは、團が亡くなった当日のことをよく覚えていらっしゃいました。三井本館の三井合名会社から「会議があるから早く来てほしい」っていう催促の電話が幾度もかかってきたそうです。電話は江戸英雄(*5)さんからで、江戸さんは急かしてしまったことを後悔しているようなことを後に述懐していますね。

その後、團がテロに遭ったという連絡が入ったとき、伊久磨さんのお婆さん、つまり團夫人がすごく落ち着いていろんな指示をしたそうです。紋付きの着物をまず持って来なさいと言って、みんなを集め、旦那様が何時に帰って来るからそのつもりで迎えなさいって。黒田藩出身だからそういう心得があって、武家の婦人は取り乱しちゃいけないってことなんですね。子ども心に、まるで江戸時代のような気がしたと伊久磨さんは言っていました。

日本には財界に渋沢みたいな大人物がいて、團も大人物でした。でも、これで日本にはリーダー的な人がいなくなっちゃった。團がテロにれたのは日本の国にとっても大変不幸なことでした。

(了)

公益財団法人 三井文庫 文庫長 由井常彦さん

1931年長野県生まれ。東京大学大学院経済学研究科修了。経済学博士。明治大学名誉教授。日本経営史研究の第一人者として知られる。2005年から公益財団法人三井文庫常務理事・文庫長を務め、2012年にはフランス国立パリ社会科学高等研究院のフリーデンソン教授と共編で、18世紀中頃には三井越後屋が世界最大の小売店であったという研究成果を発表し話題を呼んだ。著書に『安田善次郎 果報は練って待て』(ミネルヴァ書房)、『講話 歴史が語る「日本の経営」―その進化と試練』(PHP 研究所)など。

團琢磨(1858~1932)は、福岡藩士神屋宅之丞・やすの4男として生まれた。13歳のとき、同じく福岡藩の團尚静(なおきよ)の養子となり、以後團琢磨を名乗る。翌年、福岡藩留学生として渡米。マサチューセッツ工科大学鉱山学科に学ぶ。帰国後は大阪専門学校や東大で教鞭を取った後、工部省に出仕して三池鉱山局に赴任した。明治21年(1888)、三池鉱山の三井への払い下げに伴い、三池炭礦社事務長に就任。以後、三池の近代化に尽力し、数々の成功を収める。大正3年(1914)には三井合名会社理事長となり、益田孝の後継者として三井財閥を統括。以後、日本工業倶楽部初代理事長、日本経済連盟会会長などを歴任。昭和3年(1928)男爵授与。没したのは昭和7年(1932)で、三井本館玄関前で血盟団員の凶弾に倒れた。

  1. 日本工業倶楽部
    大正6年(1917)、「工業家が力を合わせて、わが国の工業を発展させる」ことを目的に発足。現在は一般社団法人。財界人の交流の場として、また定款に記されたさまざまな事業を行っている。→本文へ
  2. 昭和になって
    昭和3年(1928)、男爵位を授爵。→本文へ
  3. 徳富蘇峰(1863~1957)
    思想家、歴史家、ジャーナリスト。明治中期に言論団体の「民友社」を設立。月刊誌『國民之友』を主宰し、また『國民新聞』を創刊するなど明治から昭和期にかけてオピニオンリーダーとして活躍した。→本文へ
  4. フェノロサ(1853~1908)
    Ernest Francisco Fenollosa。東洋美術史家、哲学者。ハーバード大学で哲学を学び、25歳で来日。東京帝大で教鞭を執る。日本美術に大きな影響を受け、岡倉天心とともに東京美術学校(現東京芸大美術学部)設立に尽力した。帰国後はボストン美術館東洋部長。→本文へ
  5. 江戸英雄(1903~1997)
    東京帝大法学部卒業と同時に三井合名会社に入社。三井総元方、三井本社の文書部次長などを務める。戦後1947年より三井不動産。同社社長、会長を務めた。著書の『三井と歩んだ70年』(朝日文庫)は三井マン必読!→本文へ

写真提供:公益財団法人 三井文庫
三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.45|2020 Winter より

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