コラム「三井を読む」

三井文庫・由井常彦文庫長に聞く

エピソードが語る
「人の三井」
第三回・琢磨

公益財団法人三井文庫の由井常彦文庫長に、三井の事業を彩ってきた先達にまつわるエピソードを伺いながら、現代にも通じる「人の三井」の本質を紐解いていくシリーズの第三回は、前・後編の2回に分けて團琢磨にスポットを当てる。鉱山事業をはじめ、三井合名会社理事長として昭和初期まで三井を牽引した團琢磨について語っていただいた。

14歳でアメリカ留学
親友とは英語で会話

――明治の世になり、團琢磨は若くしてアメリカに留学しています。

【由井】 團琢磨は福岡藩の留学生として、明治4年(1871)に14歳(数え)でアメリカに渡りました。藩主の黒田長友が岩倉使節団に同行して海外視察へ赴くことになり、それに合わせて藩の留学生として派遣されることになったのです。それに抜擢されたわけですから、大変な秀才だったのでしょう。

英語の勉強がまだ不十分だからということで、最初はボストンで小学校に入りましたが、飛び級を繰り返して、マサチューセッツ工科大学(MIT)に入ったときは18歳で、ほかの学生と同じ年齢でした。

團と同じく、福岡藩の留学生として一緒にアメリカに行ったのが團より5歳年上の金子堅太郎(*1)です。金子はハーバード大学の法学部、團はMITということで、進むコースはまったく違ったけれども2人は終生親友であり続けていました。

金子は早くに伊藤博文の秘書官になって、官僚としてどんどん成功していきました。ハーバードではルーズヴェルト(*2)と同級だったから、日露戦争のあとのポーツマス会議のときにはアメリカでルーズヴェルトと話し合ったりして確たる業績を上げています。一方、團は三池炭鉱の近代化に成功したり、実業家として三井財閥を盛り上げたり、それぞれに大活躍しています。

この2人がプライベートで会話をするときは、常に英語だったそうです。團は10代の多感なときに8年くらいアメリカで過ごし、金子もそのくらい滞在していたから、2人とも完全に英語が身に染みついていたんでしょうね。

――團は、アメリカでの成績も非常に優秀だったそうですね。

【由井】 あのときは、福岡藩がすべてお金を出して團と金子を送り出したので、團は自分の成績表とか公のものは全部日本に送っています。だから、どんな成績だったかもよくわかる。

おもしろいのは、ドイツ語・フランス語と歴史の成績があまり良くないんです。それ以外は優秀ですね。鉱山学実習では100点を貰って いますし、化学系の実習や数学も90点を超えています。ですが、語学と歴史は良くない。

おそらく、ドイツ語・フランス語は彼にとっては第二・三外国語になっちゃうから、努力する時間がもったいないと思ったんでしょうね。それから歴史は、向こうではたいていローマ史なんですよ。團からしたら昔話が多すぎて、あまり勉強してもしょうがないと思ったのかもしれません。

三池発展の要因は
團の「木登り好き」!?

――三井が三池炭鉱を落札したとき、「團琢磨を含めての三池の落札である」と益田孝が言ったといわれていますが、益田は團をどう評価していたのでしょうか。

【由井】 益田は技術者が三池のトップに立つべきと思っていたから、團には最初から目をつけていたのかもしれません。後のことになりますが、明治43年(1910)に、当主の三井高棟が洋行する際、益田は團を一緒に行かせている。三池での仕事ぶりを見ているうちに、どんどん信頼が増していったのだと思います。

團は一時期東大の助教授で工学や天文学を教えていたことがあるけれど、自分の専門を活かして鉱山の開発をやってみたいと思って工部省に入り、官営三池鉱山局の技師になった。そして三池が三井に払い下げられたとき、三池ごと三井の人間になったんですね。最初の立場としては三池炭礦社事務長でした。

――團は三池炭鉱を成功させただけではなく、三池港築港など地域の発展にも努めています。

【由井】 三池で最初に大成功したのが勝立坑です。試錐によって豊かな炭層があることがわかり竪坑を掘り進めたけれど、三池炭鉱は海が近く、掘ると水ばかり出てきて、普通のポンプでは追いつかず、抗が水没してしまった。それで、デーヴィーポンプ(*3)をイギリスから導入して排水に用いたわけです。ただ、デーヴィーポンプはとんでもなく高価で、しかも本当に役に立つか確証はなかった。團は成功を信じ、自分のクビをかけて上層部を説得し導入に踏み切ったわけですが、結局その判断は正解で排水に成功。産出量が飛躍的に向上して三池炭鉱の基礎が確立しました。

デーヴィーポンプ(公益財団法人 三井文庫提供)

その勝立坑ができたあたりの頃、大きな煙突ができたら團はその煙突をどんどん上まで登って、一番上から周囲を見回していろいろ指揮をしたというんです。私は團琢磨の孫の伊玖磨さん(*4)から話を伺ったんだけど、團は子どもの頃から木に登るのが好きで、両親から「またどこに行ったのか」って怒られるくらい木に登ってばかりだったそうです。團は神童と呼ばれるほど頭の良い少年でしたけれど、このように結構やんちゃなところもあり、それが彼の人生においていくつかエピソードを生んでいます。

三池のまちを高いところから見ているうちに、鉱山ばかりじゃなくまちがどんどん広がっていく様子もわかり、途中からこれは大変なことになると実感したのだと思います。つまり石炭は資源だから、いずれはなくなってしまう。すると、このまちの人たちは食べられなくなる。それで石炭を中心としたコンビナートを構想するようになった。

そのきっかけのひとつは、高いところからまちをしょっちゅう見回して、三池の全体の発展を考えたところにあるのでしょう。三池港の築港(*5)もそのひとつですね。

明治41年(1908)に開港した三池港の閘門(公益財団法人 三井文庫提供)

――三池の成功についてはMITでも高く評価されていたそうですね。

【由井】 MITの團の先生はリチャードという人ですが、團の行動を終始見ていて、テクノロジーに関して團はすごい人物だということに気が付いていました。後の話ですが、第一次大戦が終わり、ベルサイユ条約の後、イギリスとアメリカから日本の実業団を招きたいという話があった。日本政府も大歓迎で、大正10年(1921)から11年にかけて相当な人数の団体でアメリカとイギリスに行くんですが、そのときに團が母校のMITで講演しています。コンボケーション(*6)っていう、教員も学生も全員が聴く大演説会があって、そこで團が「テクノロジーこそ世界を進歩させるものだ」と話して大変な反響を呼んだ。

マサチューセッツ州では團を大歓迎し、このとき州知事も来たんですよ。それからは東洋人も非常に優れているということで、MITは積極的に日本人をはじめ東洋人を受け入れるようになったんです。そればかりでなく、アメリカ東海岸の大学では、コロンビアでもハーバードでもイェールでも、みんな日本人を大いに歓迎するようになった。それも團の功績のひとつだと思います。

ちなみに、團の恩師のリチャード先生が名誉教授になって、80歳くらいのときにボストンから東京までやって来た。そのとき、團は先生に三池を見せたいって、東京から三池まで遠路はるばる連れて行っています。

リチャード先生も教え子が大成功したということで大変喜んで、また團も自分の先生に恩返ししようとして、日本に滞在中はものすごく気遣ってお世話したそうです。こういうのはとても良い話ですね。

(次号に続く)

公益財団法人 三井文庫 文庫長 由井常彦さん

1931年長野県生まれ。東京大学大学院経済学研究科修了。経済学博士。明治大学名誉教授。日本経営史研究の第一人者として知られる。2005年から公益財団法人三井文庫常務理事・文庫長を務め、2012年にはフランス国立パリ社会科学高等研究院のフリーデンソン教授と共編で、18世紀中頃には三井越後屋が世界最大の小売店であったという研究成果を発表し話題を呼んだ。著書に『安田善次郎 果報は練って待て』(ミネルヴァ書房)、『講話 歴史が語る「日本の経営」―その進化と試練』(PHP 研究所)など。

公益財団法人 三井文庫提供

團琢磨(1858~1932)は、福岡藩士神屋宅之丞・やすの4男として生まれた。13歳のとき、同じく福岡藩の團尚静(なおきよ)の養子となり、以後團琢磨を名乗る。翌年、福岡藩留学生として渡米。マサチューセッツ工科大学鉱山学科に学ぶ。帰国後は大阪専門学校や東大で教鞭を取った後、工部省に出仕して三池鉱山局に赴任した。明治21年(1888)、三池鉱山の三井への払い下げに伴い、三池炭礦社事務長に就任。以後、三池の近代化に尽力し、数々の成功を収める。大正3年(1914)には三井合名会社理事長となり、益田孝の後継者として三井財閥を統括。以後、日本工業倶楽部初代理事長、日本経済連盟会会長などを歴任。昭和3年(1928)男爵授与。没したのは 昭和7年(1932)で、三井本館玄関前で血盟団員の凶弾に倒れた。

  1. 金子堅太郎
    明治期に農商務大臣、司法大臣、枢密顧問官を歴任。伊藤博文のもとで大日本帝国憲法起草に参画。日本法律学校(現日本大学)初代学長。團琢磨の妻・芳子は金子堅太郎の妹。→本文へ
  2. ルーズヴェルト
    セオドア・ルーズヴェルト(1858~1919)。第26代アメリカ大統領。日露戦争の折には財政面をはじめ、日本にさまざまな援助を行った。→本文へ
  3. デーヴィーポンプ
    英国製のポンプ。当時、世界最大の大きさで、また非常に高価であったという。團は渡欧時に大型ポンプを駆動する技術を習得している。→本文へ
  4. 伊玖磨
    團伊玖磨。作曲家、指揮者、エッセイスト。團琢磨の孫として大正13年(1924)に東京で生まれた。東京音楽学校(現・東京芸術大学)卒。シンフォニー、オペラ、童謡まで幅広い作品を残している。童謡の「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」は特に有名。平成13年(2001)、出張先の中国・蘇州にて心不全のため他界。享年77歳。→本文へ
  5. 三池港の築港
    大牟田の海岸36万坪を埋め立て、そのなかに4万坪のドックを築造、閘門を敷設し、1万トンクラスの船の接岸を可能にした。第一義的には海外への石炭輸出強化が築港の目的であったが、團には地元民の生活保障という動機もあった。「石炭が尽きても地元の人が生活できるような置き土産が必要。築港をすればいくらか100年の基礎になる」と團は語っている。→本文へ
  6. コンボケーション
    convocation :集会を意味する言葉。→本文へ

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.44|2019 Autumn より

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