コラム「三井を読む」

三井文庫・由井常彦文庫長に聞く

エピソードが語る
「人の三井」
第二回・中上川彦次郎

三井家や三井事業の史料を保存・公開、調査研究を行っている公益財団法人三井文庫。由井常彦文庫長に三井の事業を彩ってきた先達のエピソードを伺いながら、現代にも通じる「人の三井」の本質を紐解いていくこのシリーズ。第二回目は、明治中期に三井近代化のリーダーとして活躍した中上川彦次郎にスポットを当てる。

井上馨との縁で官界で活躍

―――三井銀行を立て直すための人材として中上川彦次郎に白羽の矢を立てたのは井上ですが、井上は中上川のどういったところを評価していたのでしょうか。

【由井】 中上川は3年ほどロンドンに留学(*1)していました。あるとき、井上が中上川に「イギリスをどう思うか」と聞いたところ、「イギリスは老大国だ、ロンドンは幕末の江戸みたいなものだ」と答えたそうです。

ロンドンに行った若い青年は、大抵「イギリスは素晴らしい」というように驚嘆するのに、逆に「老大国だ」と言ったのが、こいつはすごく見る目があるなと感心したのでしょう。それで自分が外務卿になったときに公信局長(*2)に抜擢する。その公信局長時代、中上川は電信と郵便を使い分ける表をつくって部下を指導し、国際的な情報を収集するシステムを構築することで、大きな成果を上げました。

その最たる例が、ロシアのアレクサンドル二世という開明的で知られた皇帝が暗殺されたニュースをいち早くキャッチしたこと。情報を掴んだその晩の宴席で、ロシアの駐日公使に「お気の毒でした」と耳打ちしたら、そのロシア公使は自分の国の皇帝が殺されたことを知らなかったそうです。外務官僚として見事な手腕といえるでしょう。

―――将来を期待されながらも政変により官界を退き、福澤諭吉が創刊した『時事新報』の社長に就きます。

【由井】 叔父の福澤も「自分の甥に凄いのがいる」と中上川を高く評価し、「末は外務大臣にはなるだろう」と期待していた。井上ばかりでなく、それくらい多方面で中上川は若いうちから評価されていたようです。

福澤諭吉全集の中にはいっている中上川が書いた論文も優れていますよ。各省から情報が取れたから、世界各国の国力における海軍力の比較(*3)をやっていてね。官にいるときに発表するはずがその前に政変で辞めさせられちゃったから、その頃に収集した資料を元に『時事新報』で発表したんでしょう。

―――情報の重要性を知っていて、地理や地図を大変に重要視したようですね。

【由井】 】そもそも福澤が地理・地図をとても重要視していました。福澤が小学校の掛図用に『日本地図草紙』(*4)を作成したとき、中上川はその解説書として『日本地図草紙の文』を書いている。ロンドンに行く前にも、当時各地に設立された洋学校の地理のテキストとして、『地理略(概説)』(*5)を慶応義塾から出版しています。この頃は、日本人の大部分はどの国が世界のどこにあるか、その首都はどこかなんてほとんど知らなかった。中上川は地理と地図について福澤から大きな影響を受け、大好きになって積極的に知識を身に付けました。

公信局長のときはもちろん、時事新報時代やその後山陽鉄道の社長に就いたときも、三井銀行入行後も、いつの時代でも自分のデスクの後ろに大きな日本地図と世界地図が掛けてあって、何事かが起こればたちまち地図を指しながら地理的に説明したと言います。地理に精通してこそ情報も活かせるのですね。

『日本地図草紙の文』

『日本地図草紙』は、小学校などの教材用として制作された日本略図。中上川はその解説書として『日本地図草紙の文』を著した。題名をつける際に中上川が福澤に相談したところ、「この冊子は日本地図草紙と併せて使えば子どもの勉強に役立つので『日本地図草紙の文』としたらどうか」と言われてそのようにした、と序文に綴っている。(国立国会図書館蔵)

三井銀行で改革を断行

――三井銀行では不良債権の整理という大改革を断行しました。

【由井】 中上川が三井銀行に入った明治24年(1891)は、まだ明治維新からそんなに経っていない時期だから、政府のお偉方から「金を貸せ」と言われれば貸さざるを得なかったでしょうし、その借用書なんかもいい加減だったと思われます。だから政府高官への貸し借りがルーズになって、それが積もり積もって厖大な焦げ付きとなった。そうした状況にあった三井銀行を立て直すため、井上 は中上川の手腕に期待して送り込みました。

ともかく当時の不良資産(*6)の整理は情実も絡んでいるし、難しいこともいろいろあったでしょう。ずいぶん抵抗もあったことと思います。しかし、中上川はそれを極めて短期間でやり遂げました。中上川のような自信家で強力なリーダーがうんと厳しくやらなければ、できなかったことだと思いますよ。

しかし、中上川も人ですから、悩みもあったことでしょう。夜にはひとり星を眺めて、「自分の悩みなど小さなことだ」と言っていたという話も伝わっています。

――中上川は慶応義塾から優秀な人材をどんどん採用し、それらの人材が三井にとって重要な役割を担っていきました。

【由井】 その通りです。中上川が採った人たちは必ずしも、学校の秀才タイプじゃなく、みんなかなり個性がありますよ。

彼らは学生時代に真面目に勉強するというよりも、ビジネスアイデアをいろいろ考えていて、なかでも阪急を興した小林一三は作家志望でその典型でしょう。

池田成彬(*7)もそうだけど、王子製紙の藤原銀次郎とか大日本精糖の藤山雷太、鐘淵紡績(後のカネボウ)の武藤山治、三越の日比翁助など、中上川に見出されて名を成した人物は大勢いますね。若い慶應出身者を不良債権の回収や各地の製糸工場の経営など、困難な業務にあたらせて鍛え上げました。

彼らは皆、多かれ少なかれ革新的なことをやっていて、中上川はそれを大変喜んだそうです。

――益田孝と中上川彦次郎についていろいろお話を伺いましたが、今の三井グループの人にとって、彼らから見習うべき点はどんなところにあるでしょうか。

【由井】 明治初年前後でありながら、ふたりとも海外経験があって国際人でした。ひと言で言えば、今の若い人には彼らのように世界に目を向けて、もっと国際化してもらいたいということですね。

僕の限られた経験ですけれど、日本の会社から海外に派遣されている人の多くは向こうでムラを作っちゃったりして、なかなか外国の社会に溶け込んでいかない。もっともっと外国人との社交をしたほうがいいんじゃないかと思います。

今、日本から海外への留学生が減っているんだそうですね。寂しいことですね。今は英語やほかの語学を勉強するにしても手段や施設はたくさんある。会社ももっとたくさんの人を海外に派遣したほうが元気がでるし、いろんなチャンスが出てくるような気がします。

公益財団法人 三井文庫 文庫長 由井常彦さん

1931年長野県生まれ。東京大学大学院経済学研究科修了。経済学博士。明治大学名誉教授。日本経営史研究の第一人者として知られる。2005年から公益財団法人三井文庫常務理事・文庫長を務め、2012年にはフランス国立パリ社会科学高等研究院のフリーデンソン教授と共編で、18世紀中頃には三井越後屋が世界最大の小売店であったという研究成果を発表し話題を呼んだ。著書に『安田善次郎 果報は練って待て』(ミネルヴァ書房)、『講話 歴史が語る「日本の経営」―その進化と試練』(PHP 研究所)など。

公益財団法人 三井文庫提供

中上川彦次郎(1854~1901)は豊前国(現・大分県)の武士の家に生まれた。母は福澤諭吉の姉。幼少時は漢学を学び、やがて洋学に興味を持ち、叔父の福澤を頼って慶応義塾に入門した。21歳でロンドンに遊学したときに井上馨と縁を持ち、これが後に三井に入るきっかけとなる。帰国後は外務省の公信局長などを務めたが、政変によって下野。その後は時事新報、山陽鉄道の社長などを歴任。井上馨の勧誘により37歳で理事として三井銀行に入行すると、新しい人材を次々登用して銀行内の改革を断行した。また工業化路線を推し進め、現在の三井グループに連なる多くの企業を買収。三井の体質を近代化させ、三井財閥の基盤強化に大きく貢献した。

  1. ロンドン留学
    福澤諭吉の費用負担により、明治7年(1874)から明治10年(1877)までまる3年イギリスに留学。イギリス滞在中は、学業にいそしむというより、当地を見聞して視野を広めることを重視する生活を送っていた。→本文へ
  2. 公信局長
    公信局は当時の外務省で外交通信事務、海外外交官との連絡をつかさどる機関。明治12年(1879)に井上馨が工部卿から外務卿に転じたとき、中上川は27歳で公信局長に任命された。→本文へ
  3. 海軍力の比較
    外務省公信局長を辞任して間もない明治16年(1883)、中上川は時事新報にて「日本帝国ノ海軍」と題する長大な論説を発表している。内容は、日本よりむしろイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカ、そして清国の海軍の実情を詳細に比較したもの。公信局長時代からの調査に基づいたものと思われる。→本文へ
  4. 『日本地図草紙』
    明治6年(1873)、慶応義塾において作成。慶應義塾大学メディアセンターデジタルコレクション「デジタルで読む福澤諭吉」でデジタル画像を見ることができる。→本文へ
  5. 『地理略(概説)』
    明治7年(1874)、議会政治についての英国の『議事院談』と併せて発刊された。英国の地理書(W・チャンブル著)の抄訳・解説本といわれる。これらの仕事を通して中上川は大きな刺激を受け、政治や経済、内外の地理に通じていった。→本文へ
  6. 不良資産
    明治24年(1891)当時、三井の経営は危機に瀕していた。多額の不良債権を銀行内部に抱えていた上、国庫金取り扱いなど明治政府関係業務の打ち切りなど、政府からの自立が不可避となっていた。→本文へ
  7. 池田成彬
    時事新報を経て三井銀行に入行。後に筆頭常務となって三井銀行を業界首位に導いた。また、團琢磨が暗殺された後は三井合名会社筆頭常務理事。中上川彦次郎の娘婿でもある。→本文へ

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.43|2019 Summer より

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