コラム「三井を読む」

三井文庫・由井常彦文庫長に聞く

エピソードが語る
「人の三井」
第一回・益田

三井家や三井事業の史料を保存・公開、調査研究を行っている公益財団法人三井文庫。今回から複数号にわたり、由井常彦文庫長に三井の事業を彩ってきた先達にまつわるエピソードを伺いながら、現代にも通じる「人の三井」の本質を紐解いていく。第一回目は、旧三井物産の初代社長を務め、茶人「鈍翁」としても名を残している益田孝について聞いた。

幕臣から実業家へ転身
ビジネスの現場で英語を体得

――益田孝は幕臣の出身で、その時代に洋行しています。そうした経験は、後の思考や活躍にどのような影響を及ぼしていたのでしょうか。

【由井】 益田孝は我が国最初期の遣欧使節(*1)の一員でした。明治維新の5年前、文久年間にフランスに行って、その社会やインフラが進んでいることにビックリしちゃった。益田はヨーロッパに行く前から、今の中学生くらいの年齢のときに幕府の外国語修習見習生で、後にアメリカ領事館勤務となっています。だから、タウンゼント・ハリス(*2)なんかにも気安く近づけた。

ハリスは有能な外交官で、すべてにおいて優れた人物でした。益田はそんな人に接していたから、「欧米のエリート級の人は大したものだ」という印象が強く、それで熱心に英語の勉強を続けます。あの頃、進んで外国人に接した人は限られていましたが、その後、明治になってから名を成した人が多いですね。なかでも益田は傑出している人物じゃないですか。

また、益田は運も良かった。フランスから帰ってきて、鳥羽伏見の戦いのときは横浜でフランス人の士官から騎兵隊の軍事教練を受けていました。大阪から逃げてきた徳川慶喜に呼び出され、20歳そこそこで騎兵隊長の地位に就くことになったわけですが、西からの官軍が江戸にやって来た場合は戦わなくちゃならないし、そのときに勝ち目はない。だから「自分の人生はこれでおしまいという気分だった」と、その頃のことを述懐しています。結局は、西郷隆盛が江戸城攻撃を中止したので助かりました。

その幕府の騎兵隊長であった益田が、維新の後、長州の武士出身の井上(*3)に見出されて新政府で知られ、能力を買われて一時は造幣寮、今でいう造幣局の仕事に就いた。考えてみれば、面白いというか、すごい経歴ですよ。

益田は、幕臣のときから「商売は非常に重要」と常に関心を持っていて、維新後にはウォルシュ商会(*4)などしばらく外国人の商館に勤め、ビジネスの学習をする。それが後の商社の仕事に非常に活きていったということになります。

明治の元勲・井上馨と
貿易ビジネスを開始

井上馨

「歴代首相等写真」 国立国会図書館蔵

――井上馨は益田のどこに良さを見出して先収会社(*5)に抜擢したのでしょうか。

【由井】 井上馨というのはすごい人です。明治の日本において、ビジネスとか経済をけん引するという点で、薩長全体で井上を超す人はいなかったと思いますよ。数字に強く、地理とか相場の動きにも詳しい。明治維新の元勲たちのなかで、井上は傑出していた。益田はその井上の期待に応えられる、数少ないひとりだったんでしょうね。貿易については、明治政府はすごく熱心で、盛んにしようとするけれど、当時の世間の反応がなかなかついてこなかった。

そんななかで、井上がビジネスと貿易の実務に通じていた益田に目を付けたのは当然と言えます。一時、下野して先収会社を起こすときも、「あいつと一緒なら大丈夫」という気分があったに相違ありません。井上がこれはと思って引き上げた人は、大概成功しているんです。だからやっぱり井上には人を見る目があったんでしょうね。

旧三井物産の創業
初代社長に就任

――その後、先収会社の事業を三井が引き継ぎ、三井武之助・三井養之助を社主、益田を総轄(社長)とする旧三井物産が創業されます。益田が初代社長に就いたのは、どのようないきさつがあったのでしょうか。

【由井】 明治政府としても、従来の商人たちに呼びかけて各地に設立した為替会社とか通商会社はうまくいかないし、どうしても本格的な商社が必要だと思っていた。それには商売のノウハウがしっかりしている三井にやってもらうのが一番と考えたんでしょう。商社の分野に乗り出すことは三野村利左衛門(*6)も賛成しています。

益田が三井に入るときの話だと、井上が政府に戻るので自分の先収会社をたたまなくてはならない。そのとき、三野村から「三井で先収会社を引き継ぎたい」という話があった。

ただ、『自序益田孝翁伝』(*7)によると、益田は最初三井に入りたくなかったらしい。三井は伝統もあるし大きな組織だから、自分のやりたいようにできないんじゃないかと。それを三野村が説得して、新会社の基本的な経営権は益田が握るということで、明治9年(1876)の旧三井物産創立となった。

問題は資金でね。創業後、三井銀行だけでは資金がまかなえなかったため、益田の積極的な活動のもと、渋沢栄一の第一国立銀行や、当時新興の安田善次郎(*8)に頼んだりもしています。

最初は資金不足が続いたし、それからビジネス自体も当初はインフレ基調だったのが、明治14~15年は松方デフレ(*9)にぶつかって、益田もまいっちゃって、もう会社に行くのがいやになったそうです。後藤象二郎(*10)の高島炭鉱はもっと辛いだろうと思って訪ねてみたら、後藤象二郎も布団にくるまっていたという(笑)。ともかくこの頃が一番辛かった、と回想で益田自身が言っています。

――益田の商売に対する考え方はどのようなものだったのでしょうか。

【由井】 旧三井物産の昔話で僕がよく聞いたのは、益田は石炭を海外に売っているけれど、売った後の空になった船をただ日本に帰すのはもったいないから、その船は廈門(*11)の方から香港を通るか、北京の方を回って何か買い付けて帰るということ。三角貿易というか、それはすごく益田の考えを特徴付けていると思います。三国間貿易で初めて儲けが出てくる。二国間の売り買いだけじゃ本当の面白味はない、と自分の回顧録に書いています。

三井物産「日記」

旧三井物産本店の業務日誌。取引内容や社員の動き、人事、銀行や政府・官庁との連絡などを知ることができる貴重な史料。写真は第1号の表紙と記事で、創立前に井上邸で行われた会談の内容が記されている。記事は益田が書いている。(公益財団法人 三井文庫提供)

良質な国産米は売れる
発揮される商売の才覚

――旧三井物産で益田が手腕を振るった商売のエピソードを教えてください。

【由井】 益田が商社で最初に取り上げたのは米と石炭です。米取引は江戸時代に発達し、いくつかの銘柄があった。当時、堅くて大粒で一番良い米とされていたのは九州の肥後米、次いで中国地方の防長米で、それに目を付けて、米が輸出できるということを考えたのは鋭いと思いますよ。

後の中上川彦次郎(*12)は正反対で、米は貿易商品にならないと思っていた。それに対して益田はいつも米で儲けることを考えており、すごく機敏に売り買いして成功する。米は価格変動が激しいから、失敗した人も多いけれど、売買のタイミングによっては成功できるんです。益田からみると、やっぱり中上川は学問的で、現実をよく知らなかったのではないかな。日本の米は高品質だから海外に十分販路がある。益田はそれ を貫いていたものね。

それから、商社は生産にすこぶる慎重とよく言われるけれど、益田は台湾製糖(*13)なんかにすごく積極的だった。砂糖と小麦と綿花、この3つは国際市場商品で、国際市場がダメになることはない。益田には大局を見る目もあるんでしょうけれど、同時にビジネス的手腕も優れていました。

――旧三井物産創業からほどなく、益田は今の日本経済新聞の前身である『中外物価新報』を創刊し、事業に活用しました。新聞で相場の情報を掴み、実業家として成功したのは、アメリカ建国の父と呼ばれるベンジャミン・フランクリンとも共通する興味深い事例です。

チャレンジでリスクを克服
「自転車で富士山に登る人」

――三井組による官営三池炭鉱の払い下げにも、益田は大きく関わっていました。

【由井】 三井にとって三池の石炭は大主力商品なので、三池はどうしても手に入れざるを得ない。当時でも高すぎるのではないかということはあったようですが、この入札額を決めるのは相当悩んだようですね。

455万5千円(*14)はすごい金額ですよ。新橋と横浜間の鉄道で、最初の投資が4~500万円だものね。だけど、それを思い切って提示して落札に成功した。その後の三池の発展は琢磨の経営能力だけど、しかし最初の判断は益田の影響が大きかったでしょうからね。

――落札するために借り入れた資金を予定より早く返済できたことでも、先見性が裏付けられますが、リスクも大きかったのではないでしょうか。

【由井】 明治20年代頃、「益田孝ってどういう人物なのか?」と、外国人らの間で話題が出たとき、「自転車で富士山を登るような人だ」と例えられたそうです。益田は誰もできない着想で、頭の中ではリスクなんて意識もなく、当然やれるということで突き進んでいく。「自転車で富士山に登る人」というのは、言い得て妙だと思います。

だから、今の人にもこれは勉強になる。要するにリスクばっかり計算していたら、ビジネスは成り立たないということ。無理だと 思ってもやっちゃう。益田はやれるものはやって、大体成功しているんだものね。大きく失敗した仕事というのはあまりないですよ。

傑出した2人のリーダー
益田と中上川の関係

――同時期に活躍した益田孝と中上川彦次郎はどんな関係だったのでしょうか。

【由井】 まったく対立がなかったわけじゃないでしょう。それぞれリーダーとして傑出していたから両雄並び立ちにくい。益田の方が中上川より6つくらい歳上です。だけど、中上川が外務省の公信局長をやっていたというのはすごく大きなことで、公的には益田とは比較にならないほど高い地位のエリート。

また中上川には福沢諭吉の影響が強くあり、考え方も学者っぽい。だから、中上川は公信局長をやったあと、『時事新報』(*15)の頃はいくつも論文記事を書いていた。福沢諭吉の全集には明らかに中上川が書いたと思われるものがいくつもあります。

それでも砂糖の事業については双方協力し合っている。台湾製糖ができるときには中上川も「良い産業で結構だ」と言っています。

ふたりの共通点としていえるのは、インフォメーションとコミュニケーションを重視していたということ。つまり、情報と人材を集中することが勝ちにつながるという考えですよ。生産会社だとそれは技術になるけれども、技術に並ぶものはやはり人材であると。人材と情報を活用すれば、メーカーにおける技術と同じことで、すごい力を発揮するんだという思いは共通しています。

精力的な活動の裏に
食の知識とこだわり

――益田は食に関しても相当なこだわりがありましたね。

【由井】 僕はこれをすごく評価しているんですよ。益田は、自分の経験からしてビタミンというものがとても良いものだと思っていた。周囲にも、ビタミンを摂ることによって健康が増進するし、精力的に活動できるから、たくさん摂るべきだと勧めてまわっていました。三井家の御当主にも勧めているほどです。

たんぱく質も重要だということで、自分の小田原の家でいろいろつくるんだよね。実験的に農場をつくって、豚などの動物を飼い、いろいろな餌を試してみたりしています。

また、大豆たんぱく質もすごく良いから、大豆をうんと食べることは大変結構なことであるとも言っています。こういうことを体系的に述べたのは、僕が見た限りでは、明治・大正で益田くらいじゃないですか。当時のビジネスマンで栄養について、あんなにしゃべっている人はいないですよ。

――実際、益田は江戸時代に生まれ、昭和の初めまで存命でしたが、91歳と非常に長生きでした。その秘訣のひとつが食だったのかもしれませんね。

文化の価値を見出した
比類なき大実業家

――益田といえば茶の湯や美術品のコレクションなど、文化的な影響力も非常に大きい存在です。

【由井】 そうですね。益田が大師会(*16)をつくったのは明治29年か30年くらいだったかな。今も続いているそうですから、大した伝統ですね。ただ、益田のコレクションについていえば、今は四方に散っちゃっている。けれども名品が多いので、個人蔵を含めて現在でもほとんどすべての所在はわかっています。

ずいぶん前に、『鈍翁益田孝展』というのが催されました。そのときはいろいろなところからコレクションを集めてやったようですが、今はもう難しいんじゃないですか。益田のコレクションの現物を一カ所に集めて展示するのは、ものすごく大変だと思います。

――また、益田は一流の茶人としても名を残しています。

神奈川県小田原市の益田孝私設博物館「鈍翁in西海子」では、益田が収集した茶器や美術品も鑑賞できる

【由井】 益田が中心になって、いわゆる実業家の茶人というのですかね、近代の数寄者というのでしょうか、そういうのが形づくられた。益田が茶の湯を言い出して、どんどん茶会の仲間が増えていった。三井の会社の関係も多かったようです。藤原銀次郎(*17)とか小林一三(*18)とか。新たなお茶の集まりのカタチだと思いますね。

藤原がまだ偉くないときに益田のところに行って、いつも待たされて、お茶の会は4時間かかると言われたんでビックリ。

「こんなに忙しい商売している人が4時間も無駄なことをやっていてどうする」ってさんざん文句を言ったそうだけど、自分が成功したら自分も盛んに銘器を集め出しています(笑)。

――益田を通じて、日本の実業界の人々が美術や文化に関心を払うようになったということで、文化面における功績も非常に大きい存在ですね。実業家としても文化人としても、見習うべきところがたくさんあることがわかります。ありがとうございました。

(次号は中上川彦次郎について)

公益財団法人 三井文庫 文庫長 由井常彦さん

1931年長野県生まれ。東京大学大学院経済学研究科修了。経済学博士。明治大学名誉教授。日本経営史研究の第一人者として知られる。2005年から公益財団法人三井文庫常務理事・文庫長を務め、2012年にはフランス国立パリ社会科学高等研究院のフリーデンソン教授と共編で、18世紀中頃には三井越後屋が世界最大の小売店であったという研究成果を発表し話題を呼んだ。著書に『安田善次郎 果報は練って待て』(ミネルヴァ書房)、『講話 歴史が語る「日本の経営」―その進化と試練』(PHP 研究所)など。

公益財団法人 三井文庫提供

益田孝(1848~1938)は、代々佐渡金山にかかわる地役人の家に生まれ、徳川政権末期には幕臣として青年時代を過ごした。慶応4年(1868)、徳川時代が終焉すると、武士をやめ商人を志す。横浜に移って、通訳やウォルシュ・ホール商会のクラークなどを務めながら商取引を見聞した。この頃の井上馨との出会いがきっかけとなり、貿易事業に携わる。

明治9年(1876)に旧三井物産初代社長に就任。中外物価新報(日本経済新聞の前身)を創刊し、自ら筆を執って解説・論説を行った。旧三井物産をはじめとした各事業で大きな成果を上げて三井財閥の礎を築き、明治の資本主義経済発展を牽引した人物として、日本近代史にその名を残している。

  1. 遣欧使節
    孝明天皇の攘夷勅命により、横浜港の閉鎖交渉を目的に文久3年(1863)12月29日から元治元年(1864)7月22日にかけて幕府がフランスに派遣した使節。横浜鎖港談判使節団と呼ばれる。正使は備中国井原(岡山県)の領主で幕府外国奉行の池田長発(ながおき)。途中、カイロのギザでスフィンクスをバックに撮った使節団面々の記念写真がよく知られている。益田は、父鷹之助の家来という名目で参加。交渉そのものは失敗に終わっている。→本文へ
  2. タウンゼント・ハリス
    安政3年(1856)、伊豆下田に入港し初代駐日アメリカ領事となる。その後、日米修好通商条約の締結によって初代駐日アメリカ合衆国弁理公使となり、元麻布の善福寺を公使館として文久2年(1862)4月まで日本に滞在した。益田は14歳のときに幕府の支配通弁御用出役(通訳官)として善福寺の公使館に勤務し、直にハリスに接した。→本文へ
  3. 井上馨
    元は長州藩士。維新後は同じく長州の木戸孝允の引き立てで大蔵省に入り、やがて大蔵大輔(副大臣相当)に昇進。益田はこの頃に井上と知り合い、四等出仕という身分で大蔵省に入省。やがて造幣権頭となって大阪の造幣寮に赴任した。その後、井上は司法卿の江藤新平と対立して政界から一時身を引く。この時期に商社としての先収会社を興し、益田を副社長に抜擢した。政界復帰後は工部卿や外務卿を歴任。第2次伊藤博文内閣時には内務大臣に就任し、伊藤が交通事故で重傷を負ったときは総理代理も務めた。三井とは強固なコネクションがあり、西郷隆盛から「三井の番頭さん」などと揶揄されたことも。→本文へ
  4. ウォルシュ商会
    樟脳、金、絹、茶などを取り扱う商社として横浜港の開港とともに開設。正式にはウォルシュ・ホール商会(Walsh, Hall and Company)。益田はこの会社に1年ほど雇われている。→本文へ
  5. 先収会社
    井上馨が一時政界から身を引いていたときに益田とともに設立。もともとはふたりと関係のあった商人岡田平蔵と共同で興した会社であったが、岡田の急死により、事業を再編し、先収会社として再出発した。→本文へ
  6. 三野村利左衛門
    幕末から明治にかけての三井の大番頭。もともとは江戸で小さな脇両替商を営んでいたが、幕府の勘定奉行小栗忠順(ただまさ)と深い縁があったことから、御用金賦課に苦しむ三井の危機を救った。その功績で外様ながら三井の重役に抜擢され、さらに後の三井財閥の基礎を築き上げた。→本文へ
  7. 『自序益田孝翁伝』
    大正時代に月刊『衛生』に連載された、長井実による益田の聞き書きをまとめたもの。益田自身の語りによる貴重な資料。長井の手により1939年6月に初版が発行されている。→本文へ
  8. 安田善次郎
    安田財閥の祖。現在の「みずほフィナンシャルグループ」「損保ジャパン」「明治安田生命保険」などは安田善次郎が興した会社がルーツのひとつになっている。益田を支援していた時期は、北海道で釧路鉄道を敷設し、釧路炭田を開発していた。→本文へ
  9. 松方デフレ
    西南戦争の戦費調達を端緒とするインフレ抑制のため、大蔵卿の松方正義が明治15年(1882)から行った緊縮財政によるデフレ誘導政策。これにより農産物価格などが下落し、農民が窮乏。世間は不況となり、金持ちと貧困層との格差が広がっていった。→本文へ
  10. 後藤象二郎
    幕末時代は土佐藩士(上士)。坂本龍馬と交わり、龍馬の提案とされる大政奉還の建白書を藩主山内容堂が将軍慶喜に提出するのに深く関わった。明治以後は大阪府知事や参議、工部大輔などに就く。明治7年(1874)に実業界に転身し、政府から高島炭鉱(長崎市)の払い下げを受けて経営を開始するが、ほどなく破綻。三菱の岩崎弥太郎に売却している。→本文へ
  11. 廈門
    台湾台中市のほぼ真西に位置する中国・福建省の都市。1842年の南京条約によって開港。イギリス租界が置かれ、19世紀から各国の交易拠点のひとつとなっていた。→本文へ
  12. 中上川彦次郎
    福沢諭吉の姉を母に持つ。慶應義塾卒。経営不振の三井銀行を立て直すため、井上馨に要請されて入行し、三井銀行副長に就く。銀行で手腕を発揮する一方で、三井の中枢部に位置し「工業化路線」を推進した。→本文へ
  13. 台湾製糖
    日本の台湾統治時代の明治33年(1900)に設立された製糖会社。設立は台湾の産業振興と経済発展を目的に政府主導で行われ、井上馨らの後援のもとに三井財閥も資本投下し、事業を行った。→本文へ
  14. 455万5千円
    三井が三池炭鉱を落札した1888年の政府一般会計歳入は9296万円。落札額はその約5%に相当する金額であり、いかに高額だったかが窺える。→本文へ
  15. 『時事新報』
    明治15年(1882)に福沢諭吉によって創刊された日刊新聞。創刊時の社主は中上川彦次郎であった。中上川は明治20年(1887)に退社し、山陽鉄道会社の社長に就任している。→本文へ
  16. 大師会
    明治29年(1896)に益田によって開かれた茶会。弘法大師の筆による『崔子玉座右銘』を披露するため、弘法大師の縁日にあたる3月21日に開催されたことから大師会と名付けられた。現在も公益財団法人として存続し、南青山の根津美術館で毎春茶会が行われている。→本文へ
  17. 藤原銀次郎
    慶應義塾で学び、松江日報の新聞記者を経て明治28年(1895)に三井銀行入社。4年後の明治32年(1898)に旧三井物産に移った。以後、上海支店長、木材部長などを務め、明治44年(1911)に王子製紙専務に就任。昭和8年(1933)には王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が合併した巨大企業、新生王子製紙の社長となり、「製紙王」と呼ばれた。→本文へ
  18. 小林一三
    阪急電鉄、阪急百貨店、東宝、宝塚歌劇団など、現在の阪急阪神東宝グループの創業者。小林のキャリアの出発は三井銀行。慶應義塾を卒業し、明治25年(1892)に入社。15年ほど在籍し、東京本店調査課主任などを務めている。→本文へ

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.42|2019 Spring より

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