三井ヒストリー

豊田自動織機への三井の支援

三井と豊田佐吉(前編)

明治から大正にかけて動力式の自動織機を発明し、今日あるトヨタ自動車の礎をつくった豊田佐吉(1867年3月19日~1930年10月30日)の名前は誰もが知るところ。その豊田佐吉、および豊田の事業と三井とは深いつながりがある。かつての旧三井物産は豊田佐吉の技術の優秀性を認め、明治半ばから数々の支援を行っていた。

豊田佐吉と三井との出会い

若かりし日の豊田佐吉
(出典「豊田佐吉伝」。国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

日本における紡績業は、慶應3年(1867)~明治5年(1872)に創設された鹿児島紡績所、堺紡績所、鹿島紡績所(以上、始祖三紡績と呼ばれる)によって始まっている。しかし、事業体として大規模なものは明治15年(1882)に開業した大阪紡績が最初であろう。その少し前の明治12年(1879)、旧三井物産初代社長の益田孝が渋沢栄一に相談をもちかけている。

「日本にはまだ機械工業というほどのものが全くないのだから、それを日本人に教えなければならぬ、それには機械工業中最も簡単な紡績がよい、紡績会社をやろうじゃござらんか」(長井実・編『自叙益田孝翁伝』より)

この提言に渋沢が大賛成し、ロンドンの紡績機械の会社に人を送り込むなどして準備を始めた。それが同社設立のスタートといわれる。

旧三井物産(以下、三井と表記。本記事内で三井とあるのはすべて旧三井物産のこと)はこの大阪紡績に対し、紡績機械の供給、原料綿花の供給、製品を販売するための市場開発を行っていく。また、紡績および織布会社の育成、国内紡織機製造工業の育成などを通じて、三井は日本国内の綿業全般に大きく関わっていった。

明治28年(1895)に日清戦争が終結すると、日本国内の経済規模が拡大して綿布などの輸出も盛んになる。そうした中、明治32年(1899)の夏頃に三井の営業部と名古屋支店が香港・台湾向けの輸出綿布の審査をしていると、乙川綿布という会社の製品に目が留まった。乙川綿布は輸出用の白木綿布を製造していたが、どの製品も品質が寸分違わぬほど安定していたという。それは従来の手動による織機では不可能なことだった。

そこで調べてみると、乙川綿布では豊田佐吉の発明による豊田式汽力織機(木鉄混成動力織機)を使用していたことが判明する。このことが豊田佐吉と三井との出会いに結び付いた。

発明で人のために役立ちたい

豊田佐吉(以下、佐吉)は慶応3年(1867)2月14日、遠江国敷知郡山口村(現・静岡県湖西市)に父・豊田伊吉と母・いの長男として生まれた。豊田家は若干の土地を持つ自作農家であったが、父の伊吉は腕の良い大工職人としても近隣の信頼を集め、佐吉は小学校を卒業する頃から父の大工仕事を手伝うようになっていった。

また、豊田家は日蓮宗を信仰していたといい、日蓮の救国・報徳の思想も「人のために役立ちたい」「国のために尽くしたい」という佐吉の人間形成に大きな影響を与えた。

明治18年(1885)になると、明治政府は現在の特許法の前身ともいえる『専売特許条例』を公布。18歳になった佐吉は、それによって新しいものを創造する発明の意義を知ることになる。

その後、明治20年(1887)末から佐吉は豊橋の大工職の家に住み込んで修業を始めていたが、この頃、付近の農家で使われている手機(手織機)に興味を持つようになった。能率の悪い手機を改良すれば人の役に立つのではないかと考え、研究に没頭するようになる。その熱の入れようは本業の大工仕事が手につかないほどで、納屋にこもり、作っては壊す作業を繰り返した。

さらに明治23年(1890)4月、東京・上野で開催された「第三回内国勧業博覧会」が佐吉に衝撃を与えた。そこには国内外の最新機械工作物が数々出品され、佐吉は展示されているそれらの構造をしっかり理解しようと1カ月間、毎日会場に通い詰めていたという。

そして、同年の秋に佐吉の最初の発明品となる「豊田式木製人力織機」を完成させる。これは当時使われていた手機(バッタン織機などと呼ばれていた)を足踏み式に改良し、両手が必要だった織り作業を片手でできるようにしたものである。そのため4~5割ほど作業能率が上がり、しかも製品のムラが少なかった。翌年の5月には、この織機で佐吉にとって初の特許も取得している。

佐吉は明治25年(1892)にこの織機を持って上京。現在の東京都台東区千束に織布工場を開業した。これは自身の発明品を自分自身で使用して、その出来栄えを確かめるとともに、今後の発明のための研究資金を確保するためでもあった。しかし、佐吉のつくり出す布は問屋筋から好評ではあったものの、工場経営自体は成功には至らず、1年ほどで閉鎖せざるを得なかった。

東京での失敗の後、佐吉は郷里に戻り、豊橋の母方の親戚の家に住み込みながらさらに研究を重ねていく。佐吉の最初の発明品にはいくつか優れた点があったとはいえ、基本的に人間の手を必要としていた。そのため、作業する労働者の熟練が必要だったのである。そこで佐吉が次に目指したのは、手織りから動力で織る完全な自動織機の開発であった。

やがて佐吉は、紡いだ糸を織機の経糸用に巻き替える「豊田式糸繰返機」を考案。この機構は画期的なものであり、上京して埼玉県の蕨地方でその動きを実演したところ好評を得ることができた。こうして実用化に成功し、若干の資金を得た佐吉は、明治29年(1896)に繊維産業が盛んな名古屋に乗り込み、豊橋の知人と共同で織機や糸繰返機の製造・販売を行う店を開いた。そして店の運営は共同経営者に一任し、佐吉はさらに織機の研究開発に専念していく。

豊田式動力織機の完成

明治29年(1896)、ついに佐吉は日本初の動力織機である「豊田式汽力織機」を完成させるに至る。ただし、これはまだ設計レベルでの完成であった。実際の製品完成にこぎつけるのはさらに1年ほどの期間を要し、その間佐吉は共同経営体を廃して豊田商店を開業している。

佐吉の発明による動力織機は、開口(経糸を上げ下げする機構)、入れ(経糸の間に緯糸を通す)、打ち(杼に通した緯糸をすでに織ってある経糸に密着させる)という、これまで人力で行われていた作業を動力に替え、緯糸が切れたら自動停止する装置や布の巻取り装置などを備えていた。これらによって織布の生産性や品質が向上し、しかも織機そのものが安価であった。

完成したばかりの佐吉の発明品が豊田商店に届いたとき、それを見た取引先で出機屋(織物屋)を営む石川藤八という人物が早々にこの織機を用いた製織事業の経営を申し込んできた。そして明治31年(1898)1月、佐吉と石川の共同事業として現在の愛知県半田市に工場を建設。乙川綿布合資会社が設立された。

操業開始後まもなく佐吉は退社し、以後は石川の個人企業となっているが、この乙川綿布が豊田式自動織機で生産する綿布製品に三井が着目したというわけである。

ちなみに、この年の8月には佐吉の動力織機が、次いで発明した管捲機が11月に特許を取得している。

佐吉が明治23年(1890)に完成させた最初の発明「豊田式木製人力織機」。翌年には初めての特許も取得した(トヨタ自動車「企業アーカイブス」より)

日本初の動力織機である「豊田式汽力織機(木鉄混製動力織機)」。安価で生産性や品質も高く、織り上げた綿布は高い評価を博した(トヨタ自動車「企業アーカイブス」より)

三井と織機製造販売の新会社設立

佐吉と三井との邂逅に話を戻そう。旧三井物産名古屋支店の面々は、上層部の指示のもと佐吉を訪ね、豊田式織機による綿布輸出の支援を申し出た。同時に、三井は豊田式自動織機の性能を客観的に評価するため、日本初の繊維工業の学究である高辻奈良造に調査・鑑定を依頼。その結果、豊田式織機は十分実用に供しうる性能を備えていることが報告され、なおかつ豊田佐吉という人物に対しても高辻は非常に高い評価を与えたのであった。

それを受け、三井の営業部は豊田式織機に対する積極的な支援と一手製造販売事業を計画。その方針は、当時の三井の事業(旧三井物産以外を含む)全体に関する統括議決機関である三井商店理事会でも承認された。

ただ、当初の木鉄混成の織機は耐久性に難があり、そのため大工場体制の織布経営に適するものではなかった。佐吉にしてみても、まだまだ改善が必要な過渡的な発明品という認識だったのである。

後に三井はそのことに気付いたが、それでも三井出資による豊田式織機の製造・販売は今後の営業戦略として重要と判断され、明治32年11月に新会社が設立された。新会社における佐吉の立場は技師長。社名は三井の井桁のマークにちなんで、井桁商会とされた。(次号に続く)

  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.52|2021 Autumn より

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