コラム「三井を読む」

三井グループのルーツ

生誕400年 三井高利の生涯 前編

三井高利は元和8年(1622)、現在の三重県松阪市に生まれた。2022年の今年からちょうど400年前のこと。本記事では三井高利の事績に幾度も触れているが、生誕400年のこの折に、三井高利という人物の生涯、足跡を改めてたどってみたい。

越後殿の酒屋

三井高利は、江戸日本橋に開いた三井越後屋を一代にして有数の大店に育て上げ、今日まで続く三井グループの礎を築いた。それゆえに商売の天才といわれるが、その天才性は多分に母の殊法から受け継いだものである。

高利の三男・高治が著した『商売記』(享保7年/1722)には、「宗寿(高利)らが天下に名を知られるほどの商人になったのは、ひとえに殊法の血を受けたからだ。まことに三井家商いの元祖は殊法である」などと記されている。

高利の母は丹生(*1)の豪商永井左兵衛の娘で、生まれたのは豊臣秀吉が小田原攻めを行った天正18年(1590)頃とされる。関ヶ原合戦の2年後、慶長7年(1602)に13歳の若さで高利の父・三井則兵衛高俊に嫁いだ。殊法という法号はよく知られているが、俗名は不明である。

当時の三井家は松坂(*2)の地で酒や味噌を扱う商家であり、「越後殿の酒屋」と呼ばれていたが、もともと三井家は武士の出で祖父の代に商人に転身したとされている。当主の高俊は武家の息子だったせいか商売にあまり関心がなく、もっぱら連歌や俳諧など遊芸に日々を過ごすばかりだったという。

ちなみに高利の祖父は高安といい、近江国鯰江の武士であったらしい。近江源氏と呼ばれた佐々木四家のうちの六角氏に仕え、永禄11年(1568)に六角氏が織田信長の上洛軍に敗れた際、高安も追われて伊勢の地に逃れてきたとされる。越後屋の屋号は祖父が越後守と名乗っていたことに由来するが、ここでの越後守は非公式な官職名であり、高安が本当に越後の国主だったわけではない。

商売上手な母・殊法

殊法の実家、角屋永井氏は金融業を営んでいて、もともと殊法自身も優れた商売感覚を持ち合わせていたようだ。育ちのよい亭主が商売に不熱心だったことから、殊法は「自分がここで頑張らなくては」と思ったのだろう。酒や味噌の商売に加えて質屋の業務も行い、実質的に三井の店を支えた。

殊法は倹約家で身内には贅沢を禁じ、自らも華美な服を着ることはなかった。また、持ち物を捨てることが嫌いで、いらなくなったものは必ず何らかに再利用するアイデアを凝らした。しかし単なるケチということではなく、店に買い物に来た客には自らお茶や煙草を出してもてなすなど思いやりがあり、サービス精神が旺盛であったと伝えられている。前出の『商売記』には、殊法は「若き時分より天性商心、始末、費えをいとひ、古今めづらしき女人」と記述されている。高利はこの母の背中を見て少年期を過ごした。

経済成長著しい江戸に進出

日々の商いに忙しい殊法だが、高俊との間に4男4女をもうけた。長女・たつ、次女・ひめ、長男・俊次、三女・かめ、次男・弘重、三男・重俊、そして四女・ねねと次々に子を産み育て、高利は末弟の四男として殊法が33歳の元和8年(1622)に誕生した。

高利が生まれた翌年には、徳川家光が三代将軍に就任している。当時、江戸はまだ発展途上ながら地方からどんどん人が流入し、まさに経済成長の真っ只中にあった。

伊勢参宮街道の宿場町として賑わっていた松坂は、そんな江戸の情報を入手しやすい好環境だったといえる。そのため、松坂の商人はいち早く江戸繁栄の情報に接することができ、伊豆蔵やかめの嫁ぎ先の富山、殊法の実家の角屋永井といった有力商人が積極的に江戸に進出し、成功を収めていった。

殊法にも江戸の情報は逐次入ってきていたことだろう。殊法は息子らを商人として大成させるため、俊次と重俊を幼い頃から江戸に送り出し、商売の修業を始めさせた。やがて俊次は、江戸に店を構えた親戚筋にあたる有力商人たちとの関係を背景に、寛永初年(1624)頃に自身の小間物店を江戸本町四丁目に開業する。釘抜三井と称するその店は、江戸の好況と相まって商売は順調に推移。そして寛永12年(1635)、高利も長男の店で働くため、14歳で松坂を出立した。寛永12年は将軍家光が参勤交代制度をつくった年でもあった。

このとき殊法は、高利に10両分の松坂木綿を持たせたといわれている。金銭ではなく商品を渡し、10両以上で売れば元手は増える。高利の商人としての修業は、江戸までの道中ですでに始まっていた。

経営者としての才能開花

江戸本町四丁目の釘抜三井の責任者は、三兄の重俊が務めていた。俊次は仕入れのため、京都在住であった。

商売上手な殊法の血を受けた高利は、日を重ねるごとに店内で頭角を現していく。客の信頼も厚くなり、3年も経つと店にはなくてはならない存在になっていた。

そして寛永16年(1639)、高利が18歳のとき、重俊が殊法の世話のために松坂に帰郷することになると、その代わりに江戸本町四丁目店を支配することとなる。経営者の立場になった高利は、いよいよ商人としての才能を開花させていった。

この当時、商品の売り買いは客の支払いを信用しての「掛け売り」が主体であった。要するに客は品物を「ツケ払い」で買うわけで、その代金は通常、盆と暮れにまとめて支払われていた。ということは、店側にしてみれば、ときには代金が回収できないリスクも抱えていたことになる。

そこで高利は、それぞれの客の経済力や生活状況を調べ上げ、その違いに応じて集金方法を工夫。客の立場に立ちながら無理せず無駄なく代金回収を成功させた。これは殊法が松坂で行っていた手法でもあり、売掛金の回収においては、高利は兄の俊次や重俊よりも優れていたという。また、奥州などから江戸に商品の買い付けにくる地方商人の扱いにも優れていた。彼らに高く売りつけては、商品は地方ではより高値になり売れない。そうすると翌年以降の商売がなくなり結局は自分の損になる、としてサービスし、事業の継続性にも先見性を示した。こうした高利の切り盛りで店はどんどん繁盛し、重俊から引き継いだ時点で店にあった銀100貫目弱の現金は10年後に1500貫目となり、経営的に釘抜三井をより安定させていった。

もちろん、高利自身も個人的な財産を大きく増やしている。四丁目店の責任者となってから10年後、28歳のときに江戸本町の角屋敷を800両(*3)で購入する。やがて独立し、自分の店を持つための準備だったのかもしれない。しかし、兄・俊次からは自分の店を持つことは許されなかった。

そんな折、慶安2年(1649)に松坂で母の世話をしていた重俊が亡くなったという報せがもたらされた。すると今度は高利が母の世話をするために故郷に戻り、松坂の店を引き継ぐという話になったのである。史料的には判然としないが、これは俊次の言いつけであったため、高利の才覚を恐れた俊次が、重俊の死を契機に松坂に押し込めようとしたのではないかとも想像できる。

江戸を去るにあたり、高利は自身が見出した庄兵衛と呼ばれる人物に四丁目店の差配をまかせている。庄兵衛はもともと飯炊きであったが、高利が登用して支配人に据えると能力を発揮し、店はますます繁盛したという。庄兵衛は、後に高利が江戸に店を開くときも大きな力となっている。

こうして高利は、いつか必ず江戸に戻ってくるという決意を強く固め、松坂の母のもとに向かった。(次号に続く)

三井越後守宛紅粉屋藤太夫(えちごのかみあて べにこや とうだゆう)預り手形

慶長3年(1598)、高利の祖父・高安に宛てられた借金証文。文末に、「三井 越後守殿」との宛先がみえる。高利の父祖の史料は、この一通しか現存していない。

三井高利夫妻像

(提供/公益財団法人 三井文庫)

  1. 丹生
    三重県多気郡多気町の一地区。「丹」の字が示すように飛鳥時代から水銀の産地として知られ、江戸時代まで続いた→本文へ
  2. 松坂
    蒲生氏郷が開府したとき、現在の松阪市は「松坂」であった。「坂」が「阪」になったのは明治22年(1889)の町制施行から。本記事では当時に合わせて「松坂」と表記する→本文へ
  3. 800両
    現代の貨幣価値に単純換算はできないが、この時代、1両は10万円くらいではないかといわれる。すると高利は、20代の若さで8000万円の家を現金購入したということになる→本文へ

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.54|2022 Spring より

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