三井ヒストリー

三井の歴史を体現する、
後世に受け継ぐべき文化遺産の数々

三井が伝える美の伝統
(雛人形編)

江戸時代中期より、繁栄をきわめた三井各家は多くの美術品を収集し続け、そのバリエーションは多岐にわたる。今回はそのなかから美術的に価値ある雛人形のいくつかにスポットを当ててみよう。

有職雛(北家旧蔵)
江戸時代・19世紀

有職雛は、有職故実に基づき、公家の装束を正しく考証して作られた雛人形。京都の貴族階級の特別注文により製作されたのがその始まりとされ、そのため公家の娘の嫁ぎ先である大名家などに所蔵されていることが多い。本作品は北家10代高棟夫人の苞子(もとこ)が嫁入りの際に持参したといわれる。実際、苞子は旧富山藩主・前田利聲(としかた)伯爵の娘であったことから、前田家があつらえたか、あるいはさらに古い時代に前田家に嫁いできた夫人が持参したものと考えられる。男雛は公家が外出時に着用した狩衣(かりぎぬ)という装束をつけている。男女ともに比較的カジュアルな出で立ちの雛人形といえよう。

三井記念美術館は、三井各家から寄贈されたさまざまな美術品を収蔵・管理し、折々に一般公開している。本コラム第33回では、そのなかから円山応挙作品をはじめとする貴重な絵画に触れた。それに続き、今回は三井各家が所有していた雛人形を紹介する。

雛人形は、ひとがた(人形)を川に流して厄払いする「上巳(旧暦3月上旬)の」を起源とし、そこに平安時代に貴族階級の女児の間で行われていた、宮中暮らしのママゴト遊び的な「ひいな遊び(雛遊び)」が合体して生まれたとされる。

紙でできていたひとがたは、人形作りの技術向上とともにより精巧に作られるようになる。また、雛人形はもともと穢れの清めや厄払いが起源であったことから、女児の健やかな成長や幸せを願って女児の節句に飾る風習が根付いていったといわれる。江戸期以降、上流階級の間で雛人形の需要は高まり、贅を尽くした作品が数多く生まれていった。

三井家が所有していた雛人形や雛道具の数々は、一流の職人が技術の粋を凝らして製作した、美術品としても大変価値あるものばかりである。ただ、すべてが夫人や娘のために三井家が特注したというわけではなく、そのなかには夫人が嫁入りの際に実家から持参した可能性のあるものも含まれている。

三井記念美術館が収蔵する雛人形・雛道具は、1992年に北家11代三井高公の逝去に伴い寄贈された美術品のなかに含まれていたもの、2003年に高公の娘である浅野久子氏から寄贈されたもの、そして伊皿子家10代当主・三井長生氏より2009年に寄贈されたものに大別できる。

今回は、そのなかから北家と浅野氏から寄贈された作品をいくつか紹介する。それぞれの特徴については写真解説を参照されたい。いずれも平安時代の宮中のやかな様子がうかがえる見事な出来栄えである。

内裏雛(北家旧蔵)
二代永德齋(にだいえいとくさい)作
明治~大正時代・20世紀

本作品は江戸時代後期に江戸の地で誕生した「古今雛」の流れをくんでいる。日本橋十軒店の名工・二代永德齋(1858~1928)によるもので、浮世絵美人のようなリアルな顔立ちと、金糸や色糸で刺繍をほどこした豪華な衣装が特徴。北家11代高公に嫁いだ旧福井藩主・松平康荘(やすたか)の長女・鋹子(としこ)の雛人形であり、鋹子の初節句、あるいは三井家に嫁いだ頃にあつらえられたと考えられる。

紫宸殿雛人形(浅野久子氏旧蔵)
五世大木平藏作
昭和9年(1934)

久子氏の初節句の折に祖父の北家10代高棟が贈ったもの。内裏雛同様、丸平大木人形店の五世大木平藏の作。御所の紫宸殿は宮中の公的な儀式が行われる正殿である。檜皮葺の立派な御殿の中には内裏雛をはじめ、三人官女、随身などが飾られ、雅やかな宮中の生活が雛人形によって再現されている。このような御殿付きの雛人形は、江戸末期から昭和20年(1945)頃にかけて京都、大阪、名古屋などを中心に流行したという。

内裏雛(浅野久子氏旧蔵)
五世大木平藏(ごせいおおきへいぞう)作
昭和9年(1934)

北家11代高公の末娘・久子の初節句のために、丸平の通称で知られる大木人形店の五世大木平藏(1886~1941)に特別に注文してあつらえた雛人形。内裏雛は有職雛で、男雛は公家の平常の着衣である直衣(のうし)姿となっている。本作を中心に随身、五人官女、五人囃子、仕丁などの各種人形と、三井家の家紋のひとつである桐紋に唐草を蒔絵で表した豪華な雛道具が取り揃えられている。価格は当時立派な家が一軒建つほどであったと伝えられている。

梅鉢紋鷹羽紋蒔絵雛道具(北家旧蔵)
江戸時代・19世紀

雛道具は大名の息女が輿入れの際に持参する婚礼調度のミニチュア版。三棚をはじめ、化粧道具、飲食器など数10~100件以上の道具が揃えられる。梅鉢紋は苞子の実家・富山藩主前田家、違鷹羽紋は広島藩主浅野家の家紋であることから、浅野家から前田家に嫁いだ苞子の祖母・久美の雛道具を苞子が譲り受け、三井家に持参したものと考えられる。

写真提供:三井記念美術館
三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.37|2018 Winter より

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