三井ヒストリー

「人の三井」はいかにして人を使っていたのか?

三井越後屋の奉公人

四代将軍家綱の時代に開業した三井越後屋は、江戸時代も半ばになると、七百数十人の奉公人を抱えるまで成長を遂げた。企業活動の根幹として、とりわけ人事が重要であることは現代でも江戸時代でも変わりはない。奉公人の採用、昇進、給金、また生活ぶりなど享保年間当時の様子を見ていこう。

奉公人数の推移

延宝元年(1673)に三井越後屋呉服店が江戸本町で開業したとき、奉公人の数は10人程度であったという。しかし資料によれば、それから60年後の享保18年(1733)になると、本店一巻の奉公人数は合計683人になっている。

本店一巻とは、京本店を統轄店とする呉服部門で、江戸本店・向店・一丁目店(のちの芝口店)、大坂本店などが所属する。

三井は呉服だけでなく両替商としての事業も行っていたから、その部門に携わっていた者の数を含めると、享保10年代後半には750人近く奉公人がいたのではないかといわれる。三井高利が江戸で商売を開始してから約半世紀を経て、三井の事業は個人商店の域から現在の企業体のような大組織となるまでの成長を遂げたのであった。

では、これだけの奉公人の管理を三井の経営陣はどのように行っていたのだろうか。

浮絵駿河町呉服屋図(部分)

越後屋江戸本店の店内の様子。歌川豊春作。店内には複数の売り場があり、各売り場に担当奉公人を配置していた。天井には担当者の名前を記した札が下げられている。売り場では手代が商談や品定めに応じ、子供がお茶出しや商品の出し入れに駆け回っている様子が描かれ、江戸本店の賑わいを窺い知れる。

奉公人の採用

江戸本店の開業当初は、関東出身者が多く雇用されていたといわれる。しかし奉公人数が数百人規模となっていた享保年間では、江戸本店勤務者の採用について、「関東の者は一切採らない」という決定が行われている。要するに、現地採用を禁止したわけである。

また、江戸に送る奉公人は「京都出身者、または京都から3里以内に居住する者とし、江戸行きを断った場合は採用しない」こととし、京本店の奉公人は「京都から15里以内、あるいは京都の出生者は『当地勤一人も堅無用』」(元禄16年の『支配勤集』より)とされた。こうした決定には、地縁的な関係を断ち切って奉公人の不正を防ごうといった意味合いなども込められていたのだろう。

本採用に至るまでの流れは、元禄8年(1695)に制定された京本店の『家内式法帳』に記されている。手代(営業担当)は10日以内、子供(手代の補佐、いわゆる丁稚)は30日以内に請状(奉公人の身許保証書)を提出するとされている。同時にこの期間は店側が採用予定者の人柄や能力を見極める「目見」の期間でもあった。採用基準はなかなか厳しく、記録によれば見習い期間中、あるいは採用になった後も「暇遣ス」と解雇されるケースがよくあった。

厚勤録

売り場担当者の販売成績と勤務日数の記録。売り上げの数値は片仮名の符帳(暗号)に置き換えられ、内容を一見でわからないようにされている。江戸時代の商家はそれぞれ独自の符帳を用いていたが、三井では「イセマツサカヱチウシ」の符帳を多用しており、各仮名が数字の1から10に対応している。千の位は「仙」、百の位は「舟」、単位は貫匁分がそれぞれ「〆」「ゝ」「入」とされている。

奉公人の昇進

子供として採用される奉公人の年齢は、多くは13~14歳であった。彼らは採用されると店内の各部署に配置され、そこでまずは雑用、使い走りなどをさせられる。手代の中の子供の管理責任者である子供支配役、子供判取り、子供頭などが子供全体を掌握する。そして子供はプライベートなこともいちいち彼らに届ける必要があった。

また、身だしなみには厳しく、子供たちだけでの相談や口論は厳しく禁じられていた。こうして経験を積んでいくうちに、やがて子供も手代となって能力のある者はさらに地位を得ていくわけだが、昇進に際してはなかなか厳しい選抜が行われていたようだ。

三井では奉公人の役名がつくられていた。大元方(三井の事業と家を統轄する機関)が設置された宝永7年(1710)には本店で「目付」「役頭」「組頭」「支配人」「名代」といった役が設定され、その後、役はさらに細分化されていく。

当時の奉公人にとって、役付に昇進していくことはそう簡単ではなかった。 記録によれば、享保7~8年(1722~1723)に三井越後屋に入店した子供は49人だが、そのうち役付の手代(支配人クラス)に昇進したのは6人と、全体のわずか10%強でしかない。

しかも、ヒラの手代のままずっと昇進しないで済むというものでもなかった。子供として入店し、勤続15年経っても役の下位である上座役に就けないような奉公人は、状況次第では解雇の対象とされた。

こうした人員淘汰が、ある意味店内の人的クオリティ維持に貢献していたともいえるが、実際に三井越後屋に勤務していた奉公人にとっては、なかなかプレッシャーもあったのではないだろうか。

両替店子供風俗図

元大阪両替店の奉公人で、後に画家として有名になった上田南嶺の作品。大正時代に、子供時代を回顧して描いたもの。幕末期の子供の服装が見て取れる。

奉公人の給金

享保期の奉公人の給金(小遣いや褒美銀の支給)について、京本店の『永代帳』には次のように記されている。

①役頭、上座、その他手代の者には一カ年限りの小遣いを支給する。
②その上、役付の手代は三カ年ごとに割銀を、平手代の者には年褒美を与える。
③「立身」すれば大分の割銀または役料を受けることができる。

また、享保18年(1733)の『内寄会式添書名目役人判形帳』には、総手代への年褒美の支給から子供、平手代など“末々”の者への盆・暮れの小遣いの支給まで細かに記されている。年褒美は店によって若干の差はあったものの、ほぼ一定額が支給されていた。

このうち特に注目されるのは、「十分の一褒美銀」と呼ばれる仕組み(上の②の割銀)。三井越後屋それぞれの部門の利益は半年ごとに大元方に上納されていたが、同時に余慶銀として各部門にも蓄えられ、それも3年ごとの大勘定の際に大元方に上納する決まりであった。この大勘定の際、計上利益金の10分の1が役付の手代らに配分されていたのである。ということは、営業成績が上がれば所属する手代らの利益配分もより多くなるわけであり、これは奉公人たちの仕事に対する大きなモチベーションになっていたと思われる。

奉公人の1年の生活

三井越後屋の奉公人は全員男で、住み込みであった。構成は大まかにいえば手代と子供、そして下男(雑用担当)である。食事は日常的には簡素なもので、米飯中心。正月や五節句、お盆など特別な日には多少のご馳走が並んだという。

最後に江戸本店奉公人の一年間の主な行事を月ごとに簡単に列挙する。

1月 各神社仏閣に代参。三が日は交代で勤務。11日に蔵開きと見世開きをし、売り出し開始。
2月 勘定目録を作成。平手代、子供に小遣いや年褒美を支給。また参勤交代があるので武家屋敷に御用伺い。
3月 「目録」を京本店に送付。下男など奉公人の交代が行われる。春物の販売強化。
4月 端午の節句前に売掛金を回収。蚊帳、子供の腹当てなどの準備。
5月 夏物の付立てをし、追加注文を行う。
6月 夏物の販売強化。土用の頃、穴蔵の掃除などを行う。
7月 家守、下男らへ心付け。17日に店卸、夏・冬物の付立て、台所の煤掃き。下旬に役替え発表。
8月 中登り(7年ごとの里帰り)の申し渡し。下旬は夏物の付立て。
9月 20日頃に台所寄合。下男の役替え。
10月 土蔵や穴蔵の用心土、砂蓋を点検。夷講前に売掛金回収に努力。
11月 春物の注文を出す。出入り屋敷へ追加注文を受けに行く。
12月 正月用品の買い揃え。家守、出入りの者に心付け。下旬は連夜集金を確認。大晦日も売掛金の回収に注力。

その他、季節の変わり目には健康のため、奉公人全員に灸治が行われていた。

参考文献
  • 『三井事業史 本篇第一巻』(三井文庫)
  • 『三井文庫論叢』 第四十号「『江戸支配勤集下書』ー享保期の越後屋江戸本店支配役の職務と年中行事」ー(樋口知子著)
  • 『三井越後屋奉公人の研究』西坂靖著(東京大学出版会刊)

写真提供:公益財団法人 三井文庫
三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.34|2017 Spring より

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