三井ヒストリー

偉大な創業者の後、三井を発展させた後継者たち

高利の事業を支えた
子どもたち(後編)

越後屋が創業されてからは高利の子どもたちは結束し、兄弟で協力し合って家業を守り立てていった。
特に創業時から越後屋の発展に大きく寄与したのは、長男高平を筆頭に次男高富(たかとみ)、3男高治、4男高伴の4人であった。
今回は3男高治、4男高伴についてその業績や人物像にスポットを当ててみたい。

【三井高治】(1657~1726)

新町家初代。明暦3年(1657)、三井高利・かねの3男として伊勢松坂に生まれる。幼名は山三郎という。

寛文12年(1672)、2人の兄同様16歳になってから江戸に行き、商売の修業を始めた。父高利と兄たちが江戸本町で三井越後屋を開業するのはその翌年の延宝元年(1673)のことだが、商人修業途上の高治はすぐに合流せず、さらに翌年の延宝2年(1674)になってから事業に加わったといわれる。このとき、高治は名を三郎兵衛と改めた。

高治はすぐ上の兄高富のもと、しばらく江戸の本店で呉服の商売に精を出していたが、天和期(1681~1684)以降は京都に移って室町通蛸薬師町に居住し、呉服の生地の買い付けや両替業、幕府御用筋の業務などに携わっていった。

父や兄同様、高治もまた優れた商才を備えていたようで、経営が悪化している貸先から素早く貸金を回収したり、銀相場の差額を利用して大儲けをしたことなど、特に金融系での業績が伝えられている。

商売記

高治の名前で創業期の事業や高利の言行について記された本で、高治自身による教戒も付記されている。高利の代には帳簿等の書類の保存にまで手が回っていないため、この記録が最も詳しく当時の事業を伝えている。

また『高富草案』(高富が作成した家法草案)によれば、「高治は心が広く正直。家業に熱心で部下がよくついてくる。上の人の意見によく従うので、その冥加(神仏の加護)により子が多い。ただ一方で、自分の受持以外の仕事にはあまり興味を示さない」とある。

結婚は元禄9年(1696)40歳の頃と遅く、奈良深川家の娘てうをっている。ただし、すでにこの年までに三男一女をもうけているので、単に婚姻届(母かねによって松坂の役所に届けられた)が遅かっただけと見るべきだろう。

宝永4年(1707)には幕府の御為替御用を務めることが許可され、また宝永6年(1709)の兄高富の死去により、三井八郎右衞門の名前を引き継いで三井家の形式的な家長となった。その後、享保元年(1716)に「宗印」と号して法体となり、享保6年(1721)に隠居した。

高治の名前で残された特筆すべき業績に『商売記』がある。隠居後の享保7年(1722)に完成したこの書には、曽祖父以来の事績や高利の言行、越後屋創業期のさまざまな出来事が記されている。高治は10代のうちから父高利の指導のもとで三井の家業に関わってきた。そのことから『商売記』の内容の信憑性は非常に高いとされ、当時の三井家やその仕事を知る上で大変貴重な資料となっている。また、高治は40代後半から50代後半にかけて、兄弟たちとの連名で奉公人や商売に関する多くの規定を制度として整えている。

享保11年(1726)に病没。『商売記』が完成してから4年後であった。

【三井高伴】(1659~1729)

室町家初代。高利・かねの4男。万治2年(1659)に松坂に生まれ、幼名は万之助。15~16歳頃に奉公に出るという三井家の決まりのなかで、ちょうど15歳になった年が越後屋開店というタイミングであった。そのため、3人の兄のような他店での奉公は経験していない。当初は長男高平の仕入れ業務の手伝いに京都に出向いたが、すぐに江戸に転じた。

宗寿居士由緒書

高伴が晩年の享保14年(1729)に著したもの。高伴は元禄期に幕府の財政を司る勘定所の御用を兄・高平と引き受けており、その経緯が詳しく記述されている。

延宝4年(1676)、18歳で次兄高富とともに金融を扱う店を開設し、その業務に当たる。以後、江戸を勤務の本拠地とし、高富とともに江戸店を差配運営していった。貞享2年(1685)には松坂の役所から江戸への移住が認められ、駿河町の江戸両替店裏の居宅に移り住んだ。

元禄時代に入って間もなく、江戸店トップの高富が大病を患うと、その後を受けて高伴は江戸の諸店を実質的に支配していく。

高伴は御為替御用をはじめ「公辺筋緒代官筋」を引き受けるなど幕府の経済運営とかなり密接な関わりを持っていた(商売記)。人柄が良く、高富病気の以後は「一切一人にて駆引致」し、無駄遣いもせず、工夫を重ね、江戸では第一の働きがあったと称賛されている。一方で、『高富草案』によれば使用人に対する処罰などは厳しかったという。高伴の仕事ぶりは厳格で、幕府の案件を扱う上でぴったりの人物だったようである。

結婚は30代半ばと比較的遅く、元禄7年(1694)に芝増上寺の代官、奥住久右衛門重好の娘みし(「みの」という説もある)をった。夫婦共々江戸に住んだが、単身赴任が多い兄弟や後の当主らと異なり、これは珍しいケースといえる。

宝永3年(1706)に京都に移り、以後京都室町の竹屋町に妻と住んだ。享保13年(1728)、70歳の折には華やかな古希祝いを幾日にもわたって盛大に行ったという。没したのはその翌年、71歳であった。

三井6家(本家)の兄弟たち

高利は11男5女という大変な子だくさんであったと伝えられている。これまで紹介した高平、高富、高治、高伴は比較的年齢が近く、三井越後屋創業時からの第一世代として活躍したが、それ以外の兄弟についてもここで少しふれておこう。

【高好】(1662~1704)

高利6男。寛文2年(1662)松坂生まれ。江戸での呉服の店頭販売に優れた手腕を発揮したといわれる。後に高治の後を継いで京都で呉服の仕入に従事した。42歳の若さで没したが、高利10男の高春が養子となって小石川家を立てた。

【高久】(1672~1733)

高利9男。寛文12年(1672)松坂生まれ。貞享2年(1685)に江戸に行き、以降ずっと江戸店に勤務。実直な性格で、江戸店では幕府御用の収支を大きく改善させた。高久は長男高平とは20歳ほど年齢が離れているため、子に恵まれない高平の養子となったが、その後高平に長男高房が生まれたため、次男となって改めて南家を成した。

【高春】(1675~1735)

高利10男。延宝3年(1675)松坂生まれ。貞享4年(1687)、習学のために13歳で江戸に行く。次男高富の養子となり、後に6男高好の養子となる。江戸勤務を経て宝永7年(1710)に住居を京都に移し、主に為替業務に携わりながら江戸や大坂に出張した。小石川家を立て、初代となった。

【高勝】(1692~1766)

高利11男。元禄5年(1692)京都生まれ。高利71歳のときの子といわれ、高富の養子となって養育された。「伊皿子家」二代目として家を継ぐ。

以上、高平の「北家」、高富・高勝の「伊皿子家」、高治の「新町家」、高伴の「室町家」、高好・高春の「小石川家」、そして高久の「南家」の6家を「本家」という。6本家のほか、娘婿を含む養子の家系など、5つの連家により三井11家が構成されている。現在の5連家は「松坂家」「永坂町家」「五丁目家」「本村町家」「一本松町家」の各家である。

写真提供:公益財団法人 三井文庫
三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.36|2017 Autumn より

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