三井ヒストリー

三井家が保存に尽力した国宝

茶室「如庵

茶室は、所作や道具などとともに、茶の湯の深遠な世界観の演出を担う重要な装置のひとつ。今日貴重な文化財として国宝に指定されている茶室は、妙喜庵(京都)の「待庵」、龍光院(京都)の「密庵」、そして愛知県犬山市に保存されている「如庵」の3つ。なかでも「如庵」は三井との関わりが深い。明治から昭和にかけての60余年、三井北家が所有し、10代当主三井高棟はその伝承保持に尽力していた。

織田有楽斎による「如庵」創建

茶の湯は、禅僧の栄西が平安末期に宋から伝えた抹茶法が起源といわれる。それが主に武家の間で発展し、千利休が体系づけて今日に伝わる茶道を確立。表・裏・武者小路という三「千家」は、利休の孫である千宗旦の子どもたちが祖となっている。

茶の湯が茶道と呼ばれるようになったのは明治以降だが、茶の湯はもともと戦国の世の、禅の思想における生命観が集大成されたものといっていい。鎌倉から室町にかけてに明け暮れ、常に死の覚悟を求められていた武家にとって、それは心の拠りどころでもあった。そうした精神世界が抹茶法と結び付き、やがて利休は草庵のび茶としてひとつの哲学にまで昇華させた。

織田信長の実弟で、本能寺の変の後に織田信雄、秀吉、そして家康に仕えた織田長益は、戦国武将というよりも織田有楽斎という茶人としてその名を知られている。長益は利休の弟子となり、蒲生氏郷や細川忠興、高山右近らとともに利休門下七哲のひとりに数えられるようになった。後に出家して有楽斎と号し、茶の点前や茶具・茶席・茶庭の制作などに独特の感性を発揮している。

有楽斎は、隠居後に住まいを京都に移し、建仁寺の塔頭正伝院境内に隠棲した。そのときに創建した茶室が「如庵」であり、また隠居所が今日の如庵の付属書院である。

三井記念美術館館内に再現された如庵

端正なつくりで意義深い建築物

有楽斎は利休門下ではあったが、自身の好みで建てた如庵は、利休作の侘びた草庵茶室とはやや趣を異にする。

屋根はこけら葺きの格調高い入母屋づくりで、内部の構造は二畳半台目(丸畳二畳+半畳一畳+台目畳一畳)茶室と三畳の水屋の間からなる。点前座と客座のつくり、にじり口の位置、また窓や壁の腰にも随所に独特の工夫がこらされている。

露地(茶室に付随する庭園)に設置された蹲踞(客人が席入りする前に手を洗うための手水鉢)は「釜山海」という銘を持ち、波に洗われてできた水穴の石を用いた類を見ないものだ。伝承によれば文禄の役の際に加藤清正が釜山沖から持ち帰り、秀吉が有楽斎に与えたといわれる。茶室、露地相まって端正な雰囲気に満ち、如庵は茶の湯の歴史において大変意義深い建築物とされている。

また、有楽斎の隠居所であった書院は、七畳の主室と六畳間が四室というつくり。内部には長谷川等伯をはじめ、狩野山雪安信常信探山などの障壁画があるが、内も外も極めて簡素である。

三井家が購入

如庵は創建から明治維新に至るまでの二百数十年間、正伝院所有の茶室として維持されたが、その後は転々と移築が繰り返される数奇な運命をたどっていく。

明治6年(1873)、京都府は窮民産業所を設立するため、正伝院の地を府に引き渡すことを命じた。それに伴い、如庵とその付属施設は売却の対象となった。一時期は京都市祇園町の有志らが所有者となり、「有楽館」と名付けて保存公開されていたが、やがて維持運営が困難となり、明治41年(1908)に再び全館売却を余儀なくされてしまう。それに際して複数の資産家が購入の意を示し、そのなかに三井総領家(北家)があった。

北家10代当主の三井高棟は、美術品の収集など文化事業に力を入れるとともに、表千家11代の千宗左碌々斎)に師事していた。もともと三井家は、北家2代高平の時代から表千家と親交があり、茶の湯と深い関わりを持つ家柄でもあったのである。そうしたことから、有楽館の諸施設のうち最も主要な「如庵」「書院」「露地」を三井北家が買い取り、それらは同年、東京今井町(現港区六本木)の三井本邸に移築された。

ただ、東京に移築しても、如庵では20年間茶会が行われることはなかった。高棟は三井の総領として全事業を統括する立場にあったため、茶事風流等を極力控えていたからである。今井町三井邸の如庵で優雅な茶会が催されるようになったのは、高棟の古希が過ぎた昭和3年(1928)以降のことで、同年4月にはじめてお披露目が行われ、連日招待された親近者で賑わったという。

如庵と露地、書院は、その由緒はもとより、優れた建築造作や歴史的な価値という点で評価する声が日に日に高まっていき、昭和11年(1936)、文部省は如庵と露地を国宝に指定。それを機に、高棟は如庵とその施設を神奈川県大磯の別荘「城山荘」に移築することを計画する。城山荘は高棟の隠居に伴い、昭和8年(1933)に建築が開始されたもので、3万8000坪という広大な敷地を持つ。

多趣味で文化・芸術に精通した高棟は隠居後に城山荘に居を移し、書や絵画、茶の湯に没頭する日々を過ごしていくが、移築には、東京の密集地では震災や火災などで消失する危険性があり、それを避けるためという深謀もあったようだ。実際、太平洋戦争末期の東京大空襲において、今井町三井邸は焼失している。

城山荘への移築がなければ現在の如庵の存在はない。まさに高棟に先見の明があったといえよう。

三井記念美術館に再現

昭和11年(1936)に計画され、翌12年(1937)からはじまった移築作業は、高棟の指揮の下に5年という歳月をかけて慎重に行われていった。

昭和16年(1941)に全施設の移築が完了するが、それに先立つ昭和14年(1939)頃から、如庵の見学を目的として遠方から城山荘を訪れる人が多くなっていったという。これは、それだけ如庵の価値が高く評価されていたことを示している。昭和19年(1944)には、如庵と露地に続き、付属書院も国宝に指定された。

時は流れ、敗戦、財閥解体などを経て、大磯の城山荘は昭和45年(1970)に三井家の所有から離れることになる。同時に城山荘内の如庵や書院も所有者が代わり、名古屋鉄道の管理の下、愛知県の犬山市に移築された。

このとき解体移築工事を担当した工務店は、昭和52年(1977)に竣工した三井物産の京都嵐山寮の建設を請け負っている。同工務店が犬山への移築の際に詳細な図面や記録を残していたことから、三井物産は寮とともに如庵を精密に再現した茶室「長好庵」を庭の一隅に建築。庵号は、有楽斎の孫で大茶人となった三五郎長好にちなんだもので、三井家が如庵を伝承保持していた歴史的事実がここに留められている。

なお現在、三井本館内の三井記念美術館にも如庵の内部が再現され、常設展示されている。

如庵を見に行こう

如庵は現在、名鉄犬山ホテル(愛知県犬山市)の日本庭園「有楽苑」に移設されている。普段は非公開となっているが、有楽苑では月に1度、内部特別見学会を開催しており、実際に入室することができる(有料)。開催日時や料金、申込み方法などの詳細は有楽苑HPで確認することができる。

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.26|2015 Spring より

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