三井ヒストリー

近代日本の礎を築いた歴史遺産

富岡製糸場と三井

世界遺産として注目されている富岡製糸場は、生糸輸出における貿易と産業振興のために明治政府肝いりで計画が進められた製糸工場。当初官営でスタートした同製糸工場は、一時期三井の傘下にあった。日本が近代化への道を歩みはじめたばかりの明治初頭から操業を終える昭和に至るまで、115年に及ぶ歴史の一部を概観する。

富岡製糸所繰糸場(三井銀行営業案内・明治30年/公益財団法人 三井文庫所蔵)

貿易振興と品質向上のため大規模製糸場建設を計画

幕府が江戸末期に開国した際の主たる輸出品目は生糸、蚕種、茶、米、水産物など。なかでも生糸と蚕種は一時期輸出品目全体の80%以上に及ぶほどに拡大し、今でいう外貨獲得の最重要産業でもあった。

しかし、輸出の拡大に見合う生産量が追いつかず、やがて品質の低下を招いていく。粗悪品が横行し、国際的な評価も落としていった。そこで明治政府は、信頼回復と貿易の振興を目指し、大規模な製糸場の建設を計画する。

明治3年(1870)、明治政府は国策として官営の模範器械製糸場の建設を決定。フランス人の生糸検査人、ポール・ブリュナの指導の下、建設地は養蚕業が盛んなこと、製糸に必要な資源調達が容易なこと、用地が確保できることなどの要件が満たされていることから富岡に決まった。これが今日、世界遺産として注目を集めている富岡製糸場の出発である。

木骨レンガ造りの建物の設計はフランス人職工のオーギュスト・バスチャンで、製糸工場としては世界最大級の規模を持つ。製糸の器械はフランス製で、湿度の高い日本の気候や作業を担う日本人工女の体格に合わせて発注された。そして明治5年(1872)11月に操業を開始するが、この年は新橋と横浜の間で初めて鉄道が開通している。目に見える形で日本の近代化がはじまった年でもあった。

工女の恵まれた労働環境

工女は、主に10代から20代の旧士族の娘などが優先的に集められた。これは士族の失業救済の意味もあったといわれる。

労働環境は、当時としてはかなり恵まれたもので、労働時間は1日8時間、七曜制が導入されて日曜日が休み、それ以外に年間10日の休暇、食費や寮費、医療費は製糸場の負担、制服も貸与されていた。

明治政府は工女に対し、習得した技術をほかの製糸場で指導できる立場に育ってもらうことも期待していた。実際、工女らが技術を習得して国元に帰り、全国に建設された製糸工場で指導者的な役割を担ったケースも多くある。しかし、こうした労働環境であっても、工女がすぐに辞めてしまうなど、入れ替わりが頻繁であり、また官営ならではの効率の悪さから赤字経営が続いていた。

富岡製糸場を描いた錦絵(一曜斎国輝画/国立国会図書館蔵)

三井による落札

富岡製糸場の生糸は、外国資本の貿易会社によってフランスへ輸出されていたが、明治10年(1877)になると、旧三井物産がその役割を担う。日本資本による直接の輸出がはじまったのである。

その前年の明治9年(1876)、富岡製糸場は富岡製糸所と名称を変更(以下、文中は年代に応じて富岡製糸所と記述/現在は富岡製糸場と呼称が戻されている)。また同年は一時的に黒字に転じているが、生産効率の悪さは相変わらずで、やがて抜本的な改革案として民営化も提言されるようになっていった。ただ、富岡製糸所は規模が巨大であるだけに、民間の引き受け手はなかなか現れなかった。明治24年(1891)に払い下げの入札が行われたが、不成立に終わっている。

この当時の三井は、中上川彦次郎による工業化路線が推進されていた時期であった。三井は明治24年(1891)に前橋紡績所を買い取って工業部の管理下に置き、また宇都宮郊外の大嶹製糸所も手に入れて製糸事業の経営に乗り出している。

明治26年(1893)に富岡製糸所の再入札が改めて行われると、初参加した三井が最高額をつけて落札に成功。同年10月に払い下げが行われた。因みにこのときの落札額は12万1460円(現在の価値で約6億6670万円/企業物価指数で換算)で、予定価格は10万5000円であった。中上川は製糸事業に対してかなり積極的であり、富岡製糸所落札後も三重県東阪部に三重製糸所を、また名古屋近郊に名古屋製糸所を新設している。

これら4カ所の製糸所が三井工業部の管理下におかれると、富岡製糸所の支配人には、後に製紙王とも呼ばれた藤原銀次郎が就任した。当時、藤原はまだ27歳という若さであり、従業員数1500人以上の大工場でもある富岡製糸所の支配人就任は大抜擢であった。

実際に富岡製糸所で作られた生糸。ラベルの下に「飛切上」という押印があり、上質の生糸であったことが窺える。滑らかな光沢は今も失われていない(公益財団法人 三井文庫所蔵)

能力給を導入し、赤字を解消

官営時代に富岡製糸場の生産能率が上がらず赤字経営だった理由のひとつに、働き手である工女の扱いが挙げられる。

士族の失業救済の意味もあって、その娘などを優先的に採用していたことは先述したが、士族には身分がある。上士の娘ともなれば、志願して来るときもお供を引き連れ、荷物を持たせ、とにかく家格を落とすまいといった体であったといわれる。また、採用には格式や容姿が優先された。

工女たちは技術の練度によって等級がわけられていた。賃金もそれに応じていたが、高い等級に上がれる者は限られていた。一方で、身分の高い家柄の女性の身なりに憧れる工女は少なくなく、そのため出入りの呉服商や小間物商から頻繁に服飾品を購入し、「腕を磨くより顔を磨け」という歌すら工女間で流行していたという。中上川はこうした不合理を是正するために、藤原銀次郎を送り込んだのであった。

藤原はまず日給制を廃止し、給与は出来高制にした。すると、能力が評価されて給与が上がった者は喜んだが、給与が下がるケースが多く、工女たちの間で不満が爆発して大混乱が起きた。一時はストライキにも発展したが、藤原はその事態を果敢に乗り切り、富岡製糸所の成績はどんどんよくなっていった。

その後、三井による事業経営は順調で、木造平屋建ての第二工場の新設や寄宿舎などの建設を行っている。開業当初からの第一工場(繰糸所)からは古い器械がすべて撤去され、新型が導入された。そうして生産された生糸は、すべてアメリカに送られていった。

当時、生糸による絹布はまだまだ贅沢品であったが、中上川は絹布もやがて綿布のように日用品化され、しかもその最大消費国はアメリカであると考えていたからである。

経営路線の変更により売却

ところが明治34年(1901)10月、中上川が48歳の若さで病没してしまうと、三井は中上川に代わってトップに立った益田孝の主導の下、工業から商業に路線が変更される。中上川時代に三井工業部にあった多くの会社は売却され、富岡製糸所もそのひとつであった。

明治35年(1902)、富岡製糸所を含む4製糸工場すべてが横浜・三渓園で知られる原富太郎の原合名会社に売却され、三井の製糸事業は終わりを迎えた。

富岡製糸所はその後、昭和14年(1939)当時日本最大の繊維企業であった片倉に合併される。そして戦前・戦後を通じ、一貫して製糸工場として機能し続けてきたが、生産量は減産に向かい、昭和62年(1987)2月に操業停止、同年3月に閉業式が挙行された。こうして富岡製糸場は115年にわたる製糸の歴史に幕を閉じたのである。

  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.25|2015 Winter より

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