三井の歴史 [江戸期]

家制を整備し
「大元方」設置

執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井文庫

元禄4年(1691)、三井高利は三井家の結束を図るため、長男・高平を総領家とする本家筋の直系男子と養子筋の連家を定めた。後に高平が制定した家憲「宗竺遺書」では6本家(北・伊皿子・新町・室町・南・小石川)と3連家(松阪・永坂町・小野田)の9家を三井一族とした。家名は京都・松阪などそれぞれの三井家が居住する町名にちなんで呼ばれた。

連家は享保・元文期に2家(家原・長井)が加わり、6本家5連家の三井11家体制が編成された。小野田・家原・長井の3家は幕末に断絶されたが、明治に入り、家格を継いだ新たな3家(五丁目・本村町・一本松町)として再興され、今日の三井11家・6本家5連家に続いている。

江戸時代の「三井11家」は次のようなものであった。

北家高利の長男・高平の家系
伊皿子家次男・高富の家系
新町家3男・高治の家系
室町家4男・高伴の家系
南家9男・高久の家系
小石川家10男・高春の家系
松阪家長女みねとその夫、孝賢の家系
永坂町家5男・安長の長女みちとその夫、高古の家系
小野田家長男・高平の4女たみとその夫、孝俊の家系
長井家4女・かちの家系
家原家北家3代目高房の長女・りくの家系

高利の死後、長男・高平は宝永7年(1710)、三井全事業の統括機関「大元方」を設置する。大元方は現代でいえば法人格のあるホールディングカンパニーに当たり、三井の資本・各店舗・事業を共有財産として統括する持株会社のような存在であった。

その仕組みは、まず、資本は大元方にまとめて財産管理され、各店舗へは、「元建」(資本金)を定めて出資する。各店舗は半期毎に、利益に応じた額の「巧納銀」(納付料)を大元方に納めた。三井一族への「賄料」(生活費)もこの大元方から支給された。さらに各店舗が毎期の決算で納付金を大元方に納めた後に残る利益金は店に貯蓄しておき、3年おきに決算し9割を大元方に納入する。残りの1割はそれぞれの店の店員にボーナスとして支給された。

大元方の印箱

大元方は創立時の資本金は約15万両であったが、5年後には24万両に増加し、その成功ぶりがうかがえる。また、大元方の主宰者(社長)は三井総領家の当主を原則とし、人事行政においても絶対の権限を持っていた。

このような大元方を中心とした先進的な組織形態が、その後の幕府の貨幣大改鋳などによって起こった不況を切り抜けるのにも役立ち、明治維新後は三井傘下各社を統括した三井財閥の持株会社「三井合名会社」へと発展を遂げる。

江戸期について