三井の歴史 [江戸期]

暖簾印を定め、
両替商へ進出

執筆・監修:三友新聞社

開店当初から賑わいを見せた高利の越後屋だったが、これまでの慣習を破った新商法は旧態依然の同業者間からは反感を持たれ、店先に糞尿をまかれるなどの営業妨害を受けるようになった。そこで天和2年(1682)、高利は本町1丁目から密かに隣町の駿河町へ店を移転させた。

越後屋の暖簾印「丸に井桁三」

この頃に店内の結束強化と他店との違いを明らかにするため暖簾印として定めたのが「丸に井桁三」である。元々、武家の出である三井家は、近江源氏・六角佐々木氏と同じ佐々木一族の「四ツ目結」を家紋としており、高利も、越後屋の開店時には「四ツ目結」を引き継いだが、その武家紋を改めようというのである。旧習を重んじる時代にあって、新たな店章を創始するなどは重大事であった。

「丸に井桁三」がいつから用いられてきたのか正確な年月は明らかではないが、延宝5年(1677)、高利が56歳のころではないかとされている。少なくとも、江戸店が本町から駿河町へ移転する天和3年(1683)より前であることは間違いない。着想は高利の母・殊法の夢想によるものと伝えられ、丸は天、井桁は地、三は人を表し、「天地人」の三才を意味している。

このマークは三菱のスリーダイヤ、住友の井桁と並び三井グループを代表する商標として、今も一部の三井系各社の社章に受け継がれており、各社それぞれに井桁の太さや三の字に微妙な違いがある。

呉服業に遅れること10年、高利は天和3年(1683)に店舗を拡張し、両替店を開店させ、貞享3年(1686)に仕入れ店のある京都にも両替店を開く。高利は両替店を活用した為替でも商才を発揮、江戸・大阪間に為替業務を開設し、幕府の御用為替方となる。

当時、上方は銀建て、江戸は金建てであったので、仕入れが行われる上方へその代金を送金する江戸では、貨幣相場や為替の動きを注視する必要があった。また、幕府は西日本の直轄領から取れる年貢米や重要産物を大阪で販売して現金に換え、それを江戸へ現金輸送していた。

しかし、正貨輸送は労賃がかかるほか、危険の多い不便なものであったため、これに代わる方法として、高利が幕府に為替の仕組みを献策したのである。三井家は御側用人だった牧野成貞(常陸国笠間城主)の理解を得て、元禄4年(1691)、幕府から大阪御金蔵銀御為替御用を命ぜられ、三井両替店は幕府の為替御用方としての地位を確立。同年、大阪に江戸両替店を出店させた。

江戸の三井越後屋呉服店の賑わい(奥村政信・画、画像提供:三越伊勢丹)

この公金為替は幕府の大阪御用金蔵から公金を受け取り、これを60日~150日後に江戸城に収めるもので、三井では大阪で委託された額を越後屋の売り上げから収めた。公金に利子はつかないが、その運用による利回りは相当なものであった。この為替御用方は明治維新で幕府が倒れるまで続き、この金融事業は明治の後、三井銀行の母体となる。こうして、高利の越後屋は江戸・京都・大阪の3都にまたがり営業基盤を整えていった。

三井の事業を拡張していった高利は貞享3年(1686)、65歳になって京都へ居を移してから晩年の8年を過ごし、元禄7年(1694)、73歳で没した。高利はその遺言により故郷の松阪ではなく、京都の鈴聲山真正極楽寺真如堂(京都市左京区)に葬られた。これを機に三井家は真如堂の檀家となり、高利をはじめとする三井家関係者の祭祀は300年以上にわたって連綿と続けられ、今も多くの三井グループ各社による法要が執り行われている。

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