三井ヒストリー
三井銀行の誕生と150年の歩み〈後編〉
政府御用達から民間商業支援へ。
近代産業と経済を支える金融機関への進化
三井組の業務継承から民間商業銀行へ
開業当初の三井銀行は、営業種目として①官金出納、②為替、③荷為替、④貸付け、⑤預り金、⑥両替、⑦洋銀・地金銀売買の7項を掲げている。①官金出納と②為替は、明治維新後の三井組の経営における政府関係機関の官金取扱業務を引き継いでいることを示す。三井銀行の預かり公金は、明治13年(1880)上期末時点で預金残高における43%を占めている。官金取扱業務への依存度は大きいものの、創業からここまでの数年間は毎期ごとに着実に利益を計上し、三井銀行はまずまずの船出であったといえよう。
ところが翌14年(1881)、状況が大きく変化する。国会の開設時期や憲法の導入方針をめぐって大規模な政治闘争が起き、伊藤博文を中心とする薩長藩閥の勢力が政治の主導権を掌握した。この政変で三井に対する政府の保護政策は大きく変わっていく。また大蔵卿に松方正義が就任し、いわゆる松方緊縮財政の時代が始まった。
維新後、十分な財政基盤がない明治政府は、金や銀と交換できない紙幣(不換紙幣)を大量に発行して国の資金を賄っていた。さらに西南戦争の戦費を調達するために政府や民間銀行(国立銀行)も紙幣を乱発。その結果、紙幣価値が暴落して激しいインフレが引き起こされていた。
この経済危機に松方は徹底した緊縮財政を進め、また金や銀と交換できる紙幣(兌換銀行券)を唯一発行できる「中央銀行」の必要性を提案する。明治15年(1882)6月に日本銀行条例が公布され、官金出納業務も日本銀行に委託されることとなった。
しかし、そうなると三井銀行は預かっている御用金の即時返納を命じられかねない。三井銀行としては、それはどうしても回避したい事態であった。大蔵省に延期を嘆願しつつ、政府要人にもさまざまな働きかけを行っていったが、明治19年(1886)1月、松方は三井からの嘆願を正式に却下した。
ただ、この頃の日本経済は「松方デフレ」の不況から脱しつつあり、景気回復の光も見えはじめていた。官金依存体質の脱皮を余儀なくされた三井銀行は、民間の預金取扱いや貸出を中心とする民間商業銀行への転換と改革に着手し、内部的な諸制度の改革を進めていった。
一方、貸出金の累積という問題も別に抱えていた。その多くは明治初年以来の政府との密接な関係による情実絡みのもので、回収困難な債権ばかりであった。東本願寺や第三十三銀行への貸付など大口融資の焦げ付きもあり、明治24年(1891)6月時点で確実に回収可能とされていたのは、全貸出金額の3割程度にすぎなかったという。この状況に三井家顧問の井上馨は、改革の推進者として、当時山陽鉄道社長の中上川彦次郎(*1)を推薦する。
そのような折、三井銀行の経営難を指摘する記事が新聞に掲載され、京都分店で取付騒ぎが起きたのである。これが三井首脳部に事態の深刻さを認識させ、中上川の三井入りを容認させる結果につながった。中上川は株主選挙を経て三井銀行理事に就任。翌年には副長となり、三井銀行経営責任者の地位におさまった。
学卒者の採用と債権回収
三井入りした中上川がまず行ったのは、新しい人材の採用であった。中上川は自身の出身である慶應義塾出の人材を行内に送り込み、奉公人中心の経営体制に新風を吹き込んだ。採用された人材には、後に王子製紙を育てた藤原銀次郎、大日本製糖を業界の王者にした藤山雷太、鐘紡を世界最大の紡績会社に導いた武藤山治、三越を日本一の百貨店にした日比翁助、信託業の道を拓いた米山梅吉、團琢磨亡き後に三井財閥を率いた池田成彬らがいる。
同時に着手したのが、業績を悪化させている不良債権の整理であった。その多くは官金扱いの悪弊から生じていたが、中上川は相手が官であっても渡り合える学卒の人材を交渉相手に用いて回収を一気に進めた。
同時に、官金扱いの廃止にも着手した。不良債権を整理していくと、中央、地方に関わらず必ず官僚との関係に突き当たるからであった。日銀に官金取扱の辞退を申し出ると、明治25年(1892)3月から地方店舗における官金の出納事務を逐次返上。最終的には中上川没後(後述)の明治36年(1903)にそのすべてが終わる。
これらの措置によって三井銀行の業績が回復すると、中上川は工業化路線に邁進していった。鐘淵紡績を再生させ、続いて王子製紙を入手。富岡製糸所や大嶹製糸所を傘下に収め、抵当権流れで芝浦製作所も三井銀行の所有とした。石炭産業にも力を注ぎ、三池炭礦に加え北海道炭礦鉄道の株も買い占めて経営権を手中にした。
こうした工業化路線は日清戦争による好景気で順調であったが、戦時景気の反動がくると、どこも赤字続きとなって中上川に対する風当たりも強くなっていった。急進的な改革を行ってきただけに、中上川には内外に敵が多かったのである。
すると、『二六新報』という新聞が三井への攻撃を連載し、中上川を執拗に非難し続けた。この報道によって再び取付騒ぎが起き、大口預金者の日本赤十字社が200万円を引き出して他行に預け替えるという事態を招いたのである。こうして中上川の三井内での影響力は徐々に衰退し、明治34年(1901)10月7日、患っていた腎臓病の悪化により、数え48歳の生涯を終えた。
その後は益田孝がリーダーとなり、工業化路線からの脱却を図っていく。富岡製糸所や大嶹製糸所は売却され、芝浦製作所は分離独立させた。三井銀行所有の鐘淵紡績や王子製紙なども株式の一部を売却し、それらを傍系の事業と位置づけた。
三井合名会社の金融部門拡大と帝国銀行発足
大正から昭和にかけて国内では都市化が進み、大都市では道路、電気、ガスなどのインフラの整備が進められていった。特に電力業や鉄道業など、大規模な設備投資を必要とするインフラ事業においては巨額の資金需要が発生する。このような社会情勢を受け、三井合名会社は三井信託株式会社を設立し、三井生命保険株式会社を直系の傘下に加えるなど、金融部門を拡大していった。
社債発行需要が急激に増加していくなか、三井銀行は電力会社と電鉄を中心に社債の発行を積極的に引き受けていった。全国の社債(事業債)発行高のうち、三井銀行の引き受け分は、昭和2年(1927)には約16%に達していた。三井銀行、三井信託、三井生命保険の金融3社の投資活動と証券引受業務は、日本のインフラ産業の発展に多くの貢献をしていたといえる。
その一方で、この時期の三井銀行は企業中心の大口預金獲得に主眼を置いていた。貸出先は都市部の大企業がメインであったため、大衆預金は住友、第一、安田などほかの金融機関に集中し、相対的に三井銀行は伸び悩んでいた。そこで大衆預金の獲得を狙って一部方針を修正していく。昭和10年代に入ると支店を増やすとともに、中小商工業金融に進出していった。ただ、それでも他行と比べれば支店拡張に出遅れており、預金額はほかの有力銀行に差をつけられているままであった。
こうした背景から、当時の三井銀行会長の万代順四郎は、第一銀行(旧第一国立銀行)との合併を模索する。この時期は赤字国債の消化と戦時下の資金調達に対応するため、政府指導で地方銀行の合併・統合が進められていたからである。昭和17年(1942)に合併の基本条件が取り交わされ、翌年1月、三井銀行と第一銀行は合併契約を締結。3月に「帝国銀行」が発足した。ここで三井銀行の名称はいったん消滅する。さらに翌年、帝国銀行は十五銀行を吸収合併し、日本最大の銀行となった。
戦後の再出発
その後、帝国銀行は三井系企業をはじめ、多くの軍需会社に対する融資を担当した。しかし、発足から2年で終戦を迎え、日本社会は大きな転換期を迎える。
昭和23年(1948)9月、帝国銀行は解散し、同年10月に改めて旧三井系と旧十五系の行員を中心とする新帝国銀行と、旧第一系を中心とする新第一銀行が発足した。そして日本経済が復興を果たし、旧財閥系銀行がそれぞれの名前を復帰させていくと、帝国銀行も昭和29年(1954)1月より「三井銀行」の旧称を復活させ、新たな環境のもとで再出発を図ることとなった。
戦後の高度経済成長期には、企業の設備投資や海外展開を支える金融機関として、三井銀行は重要な役割を果たしていった。また、日本経済が世界有数の規模へと成長する過程において、三井銀行もまた主要銀行のひとつとして発展を続けた。そして平成13年(2001)の住友銀行との経営統合により、現在の「三井住友銀行」としての歩みが始まっている。組織の形は時代とともに変化してきたが、社会や産業の発展を金融面から支える使命は150年前から脈々と受け継がれている。
帝国銀行から三井銀行への改称を報じる三友新聞(昭和28年10月6日号)
- 中上川彦次郎についてはMITSUI Field Vol.13の三井ヒストリーおよびMITSUI Field Vol.43の三井ヒストリーにて紹介 →本文へ
三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.71|2026 Summer より