三井ヒストリー
三井銀行の誕生と150年の歩み〈前編〉
近代国家の金融を担う、三井銀行創業の背景
近代的な金融システムの必要性
銀行とは何か? 金融業としての銀行の役割はいろいろあるが、主たるものは人々からお金を預かり、資金を必要とする企業や人にお金を貸し出すことで社会全体の経済活動を円滑に支援する金融機関のことだ。
江戸時代にも金融業がなかったわけではない。しかし、当時の日本社会は藩ごとに財政が異なる分権的な仕組みであり、全国レベルで資金を循環させていく今日のような金融制度は存在していなかった。
明治6年(1873)、明治政府は三井組・小野組と共同で日本初の「第一国立銀行」を発足させたが、国内に近代的な金融制度の基盤を構築したという点では、これは日本経済の仕組みを大きく変える出来事であったといえる。こうした銀行制度が日本に必要なことを発案し、設立に尽力した中心人物のひとりが渋沢栄一である。
渋沢は慶応3年(1867)、将軍の名代でパリ万博に出席する徳川昭武(徳川慶喜の弟)の随員として渡仏し、その際に欧州の先進的な産業、経済システム、社会制度に触れている。
鉄道や水運、紡績、鉄の生産など、多額の資本が必要な商工業のさまざまな大事業が合本組織(株式会社)として社会から広く資金を募ることで運営され、背後にはバンクというシステムが機能していた。その巨大な金融規模を目の当たりにし、渋沢は驚愕した。同様のシステムを日本にも導入しなければ、やがて西欧列強に呑み込まれてしまうかもしれないという危機意識を、渋沢は帰国後も長く抱いていたといわれる。
維新後、明治政府が目指したのは、その西欧列強に並ぶ近代国家の建設であった。それにはまず軍備、鉄道や通信などインフラの建設、そして産業の育成が不可欠である。それらを実現するためにはまさに莫大な資金が必要であり、だからこそ国内にも渋沢が見聞したような近代的な金融制度の確立が早急に求められていた。
明治政府の貨幣制度改革
金融面において、明治政府が最初に取り組んだのは貨幣制度の改革であった。江戸から明治に時代が移り変わっていく慶応4年(1868)から明治2年(1869)にかけて、明治政府は太政官札という全国での通用を目的とした紙幣を発行している。
しかし、当時の貨幣単位は「両」のまま。世間では未だ旧幕府が発行した金・銀・銅貨、また各藩による地域通貨(藩札)も流通し続けていた。そこで、改めて混乱した貨幣制度を整理するために、政府は明治4年(1871)5月に「新貨条例」を公布。円・銭・厘の10進法貨幣単位と金本位制の採用、金・銀貨については円形の打刻貨幣の採用を定め、新貨の鋳造に着手する。新貨幣の普及には、旧貨幣をできるだけ早く新貨幣に交換する必要がある。また、新貨幣を鋳造するためにも、速やかな地金銀の回収が求められていた。そのような政府の要請の裏側で動いていたのが三井の大番頭、三野村利左衛門であった。
当時、財政基盤が脆弱な明治政府を為替方として支えていたのは三井組、小野組、島田組の三家であった。膨大な資金力と江戸時代から続く強力な金融ネットワークを、この三家が有していたからである。
三野村は大蔵卿の大隈重信をはじめ、政府内で貨幣制度改革を担っていた井上馨や渋沢栄一らと親しく接触し、地金銀回収と新旧貨幣の交換用務を小野・島田を出し抜いて単独で請け負うことに成功。早速「為換座三井組」を組織し、同年7月から「大蔵省御用新貨幣鋳造取扱所」の看板を掲げ、東京・大阪・京都・横浜・神戸・函館で1両を1円とする交換業務を開始した。
第一国立銀行創立
しかし、導入されたばかりの貨幣鋳造能力には限界があった。材料の地金銀も不足し、新旧貨幣の交換需要になかなか追いつくものではなく、加えて太政官札の流通期限も迫っていた。そこで三井は、独自の銀行設立を視野に入れ、大蔵省に兌換証券(正貨が支払われることを約した一時的な紙幣)の発行を要請する。これは井上や渋沢らの了承を得て一旦は認可されたが、その後大蔵小輔であった伊藤博文の提唱による国立銀行制度が採用されたために、取り消しとなった。
ただ、貨幣の交換需要が追いつかないという現実も無視できなかった。そのため一時的ではあるものの、政府は結局、為替座三井組の名義による兌換証券の発行を命じ、これは「三井札」と呼ばれた。
三井組は明治5年(1872)、現在の中央区日本橋1丁目と兜町に架かる海運橋のほとりに「海運橋三井組ハウス」を完成させる。和洋折衷の擬洋風建築は当時の人気スポットとなり、多くの見物人が訪れた。三井組はここを拠点として大元方、御用所、為換座を集約させ、独自の銀行設立に情熱を傾けていく。
一方、小野組も独自の銀行設立を目指していた。しかし、大蔵省で国立銀行の準備に当たっていた渋沢は、三井組や小野組がそれぞれの私立銀行を設立することに反対の立場であった。渋沢は自身の合本主義の信念に基づき、今の時期は国家のために個々の力を結集して強固な金融基盤を築く必要があると考えていたからである。
そこで自邸に三井・小野の両首脳を招いて共同での銀行設立を提案し、官民一体の合同資本による銀行運営を進言する。私立銀行を望んでいた両組だが、渋沢に公金取り扱いの特権剥奪を持ち出されると、「三井小野組合バンク」の創設に協力せざるを得なかった。
その後政府は、明治5年11月に米国の銀行制度(ナショナルバンク)をモデルとした国立銀行条例を発布し、翌年6月、日本最初の商業銀行として冒頭に述べた「第一国立銀行」の創立に至る。
このとき、同銀行の本店は三井組の保有する海運橋三井組ハウスが採用されている。三野村は、総工費の倍額以上で建物を譲渡したという。発足当初は三井、小野の両当主が頭取、三野村は支配人、渋沢はこの銀行を主宰する総監役(後に頭取)となった。資本金総額は300万円で、三井組と小野組が200万円を出資し、残りは公募によってまかなわれた。
日本初の私立銀行誕生
こうして日本初の銀行業務がスタートしたわけだが、しかし経営は容易ではなかった。当時は銀行そのものが世間に知られておらず、しかも設立直後に小野組が破綻してしまったのである。破綻の理由は、政府による急な政策変更にあった。
それまで三井組、小野組、島田組の為替方三家は官金を預かって運用し、それに対する抵当の差し出しは預かり額の3分の1相当と優遇されていた。ところが明治7年(1874)10月、政府は「抵当増額令」を発令し、抵当を預かり金の同額にまで引き上げてしまう。三家は官金を元手として債権の購入や貸し付けを行っていただけに、発令は打撃であった。相場や投機に多くの公金を流していた小野組は急な資金回収の要求に対応できず、連鎖的に資金繰りが破綻。同じく島田組も抵当物が調達できなくなり、それぞれ閉店を余儀なくされてしまったのである。
厳しい状況に置かれていたのは三井も同様であったが、井上や渋沢に近い三井は事前にこの発令を知らされていたともいわれ、オリエンタル・バンク(英国東洋銀行)から不足資金分を借り入れて難局を乗り切る。
共同出資者の小野組が退場したことにより、三野村は第一国立銀行を三井組で独占しようと画策するが、もともと合本主義の渋沢はそれをよしとはせず、三井組に許容されていた特権を廃止するなど改革を断行。それにより三井組は第一国立銀行の業務から手を引き、改めて独自の道を進むことになった。
ほどなく、三井組は本拠地である日本橋駿河町に、銀行業務を行うための3階建ての洋館「駿河町為換バンク三井組ハウス」を建設。そして明治9年(1876)7月、ついに明治政府から認可を得、ここにおいて日本で初めて民間の名称を冠する「三井銀行」が誕生したのである。このときの三井銀行の創立については、それまで共同事業のなかで何かと反対を表明していた渋沢栄一も賛意を示したという(次号に続く)。
駿河町三井組ハウス
2代目歌川国輝筆。明治7年2月に旧呉服店の跡地に竣工した通称「駿河町三井組ハウス」は、右後ろに描かれている「海運橋三井組ハウス」と同じく2代目清水喜助(清水建設創業者である喜助の娘婿)が設計した。屋根に載せられた和風意匠を象徴する青銅製の巨大な鯱が特徴 写真提供:公益財団法人 三井文庫
大蔵省兌換証券(三井札)
明治4年10月から為替座三井組が発行した兌換証券(10円)。通称「三井札」。三井組が証券発行と引換費用を負担する代わりに発行額の20%の自由な運用が許され、三井に少なくない利益をもたらした 写真提供:公益財団法人 三井文庫
三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.70|2027 Spring より