コラム「三井を読む」

三井が歩んできたそれぞれの時代の荒波

三井の苦難(前編)

初代高利より現代に至るまで連綿と受け継がれてきた三井の事業。
しかしながら、常に順風満帆だったわけではない。
三井の歴史をひも解けば、景気や天災地変、火災、同業ライバルの出現、内紛、そして政治の動向や時代の変革による、存続さえ危ぶまれるような経営危機の記録も残っている。
これまであまり語られることのなかった三井の苦難に触れてみよう。

同業者からの陰湿な営業妨害

三井越後屋の創業は延宝元年(1673)。三井家初代の高利は江戸本町一丁目(現在の日銀周辺)に呉服販売店を、そして京都室町蛸薬師に呉服の仕入れ店を開いた。

本町一丁目は江戸随一の呉服店街であったといわれるが、ここで三井越後屋は同業者から猛烈な営業妨害を受けてしまう。しかも、同業者の中には同郷の親戚も含まれていたといい、これが三井の長い歴史の中での最初の危難であった。

いやがらせを受けた大きな理由としては、三井越後屋が相場よりも呉服の価格を安くするなどして、同業他店の顧客を次々に奪っていったことが挙げられる。商売のために同業者と慣れ合うことなく独自路線を貫き、どんどん繁盛していく三井越後屋は嫉妬され、激しい恨みを買うことになった。

高利の三男高治の名による『商売記』には、度々の訴訟に加えて店の者が脅されたり、手代の離反を画策されたりするなど、周囲からの妨害が数々記されている。

当時、江戸店のトップは高利の次男高富であった。高富はなかなかの指導力を備えた切れ者といわれ、こうした難を逃れるために移転を決断する。そして天和3年(1683)に本町一丁目を離れ、駿河町(現在の日本橋室町一〜二丁目あたり)に店を移転させた。

この駿河町の店が、後に歌川広重の浮世絵にも描かれた巨大な三井越後屋呉服店として発展していくのだが、当初は移転後も「浪人を雇って夜に石火矢をしかけ、奉公人もろとも全滅させる」などの怪文書が出回るなど、いやがらせは続いていた。

しかし、移転して4年後の貞享4年(1687)、三井越後屋は江戸城の呉服御用を取り扱う御納戸呉服御用を拝命する。これは五代将軍徳川綱吉の側用人、牧野成貞の仲立ちによるものであった。これを期に、長く続いていた他店からの営業妨害は霧消した。

此度店々申渡

三井高利の次男・高富が作成した規則。牧野成貞が高利の長男・高平を召して、将軍が下賜するための衣服を扱う払方御納戸(はらいかたおなんど)の御用を命じたことが記されている。

幕府との関係悪化

江戸城の呉服御用達となってから、三井はほどなく幕府の為替御用にも携わることになった。

幕府はこれまで、年貢米を換金して大坂の御金蔵に集まる何万両もの金銀を馬で江戸に送金していた。しかし手間を省くためにそれを為替で行うこととし、その御用を行う業者のひとつとして、三井は元禄3年(1690)に高利の長男高平と四男高伴の名で引き受けたのである。

これは「大坂御金蔵銀御為替御用」といい、三井は幕府から恒常的に巨額の資金を預かって運用し、莫大な利益を上げることができるようになった。三井の両替部門は、最初は呉服業の補助的な存在であったが、こうした公金を扱う業務でどんどん業績を上げ、呉服店から独立する。

ところが元禄6年(1693)、江戸城呉服の御用以来、三井を引き立ててきた牧野成貞が隠居願いを出し(脳卒中を起こしたためともいわれる)、さらに2年後に隠居してしまったのである。これで三井は幕府御用に関わる強力な後ろ盾を失った。

しかも、牧野成貞の次に綱吉の側近の地位に就いた柳沢吉保(綱吉時代に大老格として政事を主導)という人物は、どちらかというと敵対し、三井との関係が非常にまずかったといわれる。

それでも三井は幕府の権力者のひとり、勘定奉行の荻原重秀(元禄時代に貨幣改鋳を行う)とは良好な関係を保ち続けていた。ただ、権力者としての立場は柳沢のほうが上であったため、1700年前後の元禄中期から宝永初期頃まで、幕府中枢との付き合いはなかなか厳しい状況が続いていたようである。

ちなみに、これに前後する元禄7年(1694)に、高利が没している。

幕府の御為替御用務めについては宝永4年(1707)、高治も加わり、高平、高治、高伴の連名で再び許されているが、同年の10月28日には宝永大地震、その49日後に富士山の宝永噴火と相次ぎ、さらに京都でも大火災が起きるなど、天災地変による困難も三井を苦しめた。

他者の危機に学び襟を正す

高利の嫡孫である高房(写真左)は、総領家3代として父・高平の没後、一族を統括する「親分」の地位に就き、三井を率いた。高房の時代には高利の子どもたちや初期の重鎮たちが没し、不況もあり内外に危機を迎えた。

そうしたなかで高房が著した「町人考見録」(写真下)は、没落した大商人約50家について高平から聞き取り、事業や没落の様をまとめたもの。警句や教戒も含まれており、豊富な失敗事例を解説することで、不況下における新世代への教育に利用したと考えられる。

写真のページでは、没落した商人とは反対の好例として、三井と同じ両替業を営む大坂の大商人・鴻池善右衛門(3代目)について「若い頃から家業に専念し、身を慎み、孝行の功徳で富を得ることは天の道、目に見える道理である」と評価している。

商売敵の出現

三井が考案した「現金(銀)掛け値なし」による「店前売」は、スタートしたときは確かに画期的な商法ではあった。だが、それがよいとなれば、当然模倣者も現れてくる。

宝永期に入ると、大黒屋という商売敵が出現し、三井越後屋と安売り合戦を繰り広げていった。現代人の身近な感覚に置き換えると、大手家電ショップの安売り競争のようなものだったかもしれない。

このときは三井越後屋がなんとか大黒屋に競り勝つことができたが、安売り競争となれば薄利多売に徹しなければならず、商売する上で決してラクではない。折しも宝永6年(1709)、当時の三井を指揮していた総帥ともいうべき高富が54歳の若さで急死してしまう。隠居していた高平や高治、高伴が高富亡き後をフォローしていくが、この出来事も三井にとって大きなダメージであったことだろう。

「現金掛け値なし」と「店前売」は、やがて多くの呉服店が追随し、普通の販売スタイルとして定着していく。大丸や白木屋といった現代に続く巨大な呉服店もこの方式を採用し、三井越後屋は常に他店との競争にさらされていた。

享保の改革と不況

元禄期はインフレで、物価が上昇し続けていた。そのため幕府は正徳期(1711〜16)に改鋳を行って貨幣の量を減らし、それにより景気はデフレに陥っていく。

続く享保(1716〜36)の時代になると、八代将軍徳川吉宗による有名な享保の改革が行われ、「物価の引き下げ」「華美の禁止」「債務関係の訴訟の制限」などにより、世の中はさらに深刻な不況となっていった。

この時期は米の豊作が続いて米価は安かったというが、逆にそれが年貢米を換金する大名の財政を直撃する。しかもウンカの襲来によって西日本では大凶作となり、そのため大名に巨額の貸し付けをしていた商人たちは資金の回収ができなくなり、没落する者も多く出るに至った。

三井も大名貸しを行ってはいたが、主力事業ではなかったため、このような事態は回避している。それでも厳しい不況は越後屋の経営を圧迫し続けていた。

また、享保期は隠居した高齢の高平を除き、兄弟の高治、高伴ら経営執行部の初代コアメンバーが次々に没している。世代交代による内紛なども起き、後世から見て享保の時代は三井にとってまさに内憂外患の、最も苦しい時代だったように思われる。(次号に続く)

写真提供:公益財団法人 三井文庫
三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.38|2018 Spring より

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