三井ヒストリー

伝えられた史料から読み解く、三井のあゆみ

史料でみる三井
(江戸期編)

徳川家光の時代から歴史を歩んできた三井には、時の流れに応じた貴重な史料が多数残されている。 従来の三井ヒストリーとは趣向を変え、2回にわたって史料の写真を中心に三井のあゆみを概観してみよう。

現代に残る江戸時代の史料

日本は長寿企業大国である。創業300年を超す企業は600社以上あるともいわれ、三井も延宝元年(1673)開業の三井越後屋呉服店から数えて約350年の歴史を積み上げてきた。これら各企業には、長寿ならではの歴史的に貴重な史料が残されているが、とりわけ三井は、それぞれの時代の記録を後世に伝えていくことを重視し、保存に努めている。

三井の歴史編纂事業は、明治36年(1903)に設置された「三井家編纂室」によって始まり、その後、三井家編纂室は「三井文庫」と名称が改められた。その活動は、敗戦による財閥解体に伴っていったん休止を余儀なくされるが、昭和40年(1965)に財団法人として再建され、以後三井文庫は三井の歴史に関する史料の保存・収集と学術的な研究に加え、広く社会に公開するなどの事業を行っている。平成22年(2010)には公益財団法人の認定を受け、 「公益財団法人三井文庫」となった。

また、三井文庫は三井家伝来の美術品などの寄贈を受け、昭和60年(1985)に三井文庫別館(文化史研究部門)を開館。平成17年(2005)10月に同部門を日本橋の三井本館に移転し、「三井記念美術館」を開設した。

このページで紹介する各史料は、「財団法人三井文庫」開設50周年事業として編纂された『史料が語る 三井のあゆみ』(左記参照)からの抜粋である。本誌では、今回の「江戸期編」と次回「幕末~財閥形成期編」の2回にわたって各史料を紹介していくが、同書は豊富な写真とともに三井の歴史が大変わかりやすく整理されている。

三井各社の皆様にはぜひ手に取ってお読みいただきたい。

①三井の元祖・三井高利 寛永12年(1635)~

『三井高利夫妻像』

今日にもつながる三井の各事業は、元祖・三井高利が10両分の木綿を持って、寛永12年に14歳で江戸に修業に出たときから始まった。その後、28歳で松坂に戻り、52歳で江戸と京都に自分の店を開いて成功を収めた。高利が一代で成した財産は金換算で72,000両とも推計され、これは同年の幕府歳入の6%に相当するという。高利の生涯や人柄は、後に子どもたちによって書き記され、今日に残っている。
『三井高利夫妻像』は高利と妻・かねの肖像画で、高利が最晩年、病床にあるときに描かれたと推定されている。これは高利嫡系の北三井家に伝えられた絹本で、在世中の高利の姿をよく伝えているといわれる。

②三井越後屋開業 延宝元年(1673)

諸法度集

松坂で機をうかがっていた高利は延宝元年、52歳で江戸本町一丁目(現・中央区日本橋本石町)に進出して本格的に呉服販売の商いを開始した。もっとも、高利自身は江戸ではなく、伊勢松坂、後に京都に身を置き、京都からの仕入や江戸での販売実務を行う息子たちを指揮していた。
『諸法度集』は高利が江戸に店を出したとき、松坂で作成した店の規則である。武士相手の掛売り禁止、帳面の規定、奉公人の生活の指針など、細かな規則が記されている。また、江戸出店時期の根拠を示す史料ともなっている。

③現金掛け値なし

『商売記』

江戸に出店した三井越後屋は、「現金掛け値なし」など、従来の商慣習を打ち破るさまざまなアイデアを駆使して繁栄の道を歩んでいく。「現金掛け値なし」とは、固定価格・現金払いによる販売のこと。それまでの呉服店では、屋敷まで商品を持参し、その都度の交渉で値段を決め、支払いは期末に一括で行われていた。
『商売記』は高利の三男・高治によるもので、享保7 年(1722)に完成した記録のひとつ。創業期の事業や高利の言行について詳細に記されている。

④幕府御用商人を拝命 貞享4年(1687)

此度店々申渡

貞享4年は5代将軍綱吉の時代。このとき三井は幕府の御用商人を命じられる。役目としては、将軍が下賜するための衣服を扱う払方御納戸、また将軍自身の衣服を取り扱う元方御納戸の御用であった。
『此度店々江申渡覚』は、江戸の三井各店舗の事業のあり方を規定した書。来るべき世代交代に備えて高利の次男・高富が作成したもので、重役の職務や商品の等級などが細かく規定されている。高利没後の三井成長期についての資料は少なく、非常に貴重。

⑤幕府の御為替御用で発展 元禄3年(1690)

御為替留

大都市における江戸時代の両替商は、現代の銀行と同様に、金融機能によって社会全体を支える役割を担っていた。三井両替店は、なかでも高額貨幣を扱う「本両替」として全国規模で巨額の資金を動かす大資本となっていた。
『御為替留』は、京両替店で永久保存に指定されていた、幕府御用に関する帳簿。寛政4年(1792)から幕府の為替送金が一口ごとに記録されている。厚手の紙を用い、「綴葉装(てつちょうそう)」という特殊な装丁できわめて堅牢につくられている。

⑥三都に店舗展開 元禄4年(1691)

名代言送帳

三井は元禄4年、大坂高麗橋一丁目に呉服店と両替店を開いた。これで三井は江戸、京都、大坂の三大都市で商売を展開するようになり、各店は同時に商品流通網・金融ネットワークの結節点ともなっていった。
『名代言送帳』は、各営業店の経営状況や奉公人の動向など、京本店の重役が記録していた業務日誌のひとつ。元文2年(1737)から明治4年(1871)まで、約140年分もの記録が28分冊で残されている。

⑦大元方を設置 宝永6年(1709)

規矩録

江戸期の三井事業の特徴のひとつに「大元方」がある。これは三井同苗とすべての事業を統括し、全財産を管理する、現代でいえばホールディングスカンパニーを想起させるような組織。高利や高富没後、巨大化した三井事業の統括が困難になってきたということが大元方設置の背景にある。
『規矩録』は大元方設置に伴い、三井各店のあり方を定めたもの。宝永6年(1709)12月に作成され、各店に通告された。7店分がつくられ、写真の3冊が現存する。

⑧三井家の家訓制定 享保7年(1722)

宗竺遺書

高利は、店の規則を定めたり、商売上の指示を手紙で送ったりはしているが、原則をまとめた家訓のようなものは特に残さなかった。三井の家訓や初期の事業の記録は、高利の子どもたちが老境に入った頃、子孫のためにまとめられた。『家伝記』『商売記』『宗竺遺書』などが今に伝えられている。
『宗竺遺書』は、長男・高平が晩年に遺言の形で定めた家訓として、一連の文書の頂点をなす。高利の遺志を踏まえるという体裁で制定され、近世の三井の家と事業を規定するものとなった。

⑨幕府の御用金相次ぐ 宝暦11年(1761)

内無番状差

江戸期の三井は繁栄を謳歌し続けたかに見えたが、順風満帆だったわけではない。江戸期は都市部で大火災が頻発し、また地震や飢饉といった天災、それに伴う暴動に巻き込まれたこともあった。特に三井を苦しめたのは、幕府の御用金であった。江戸時代は商業上の利益に課税されることはなかったが、富を蓄積している三井のような大商人には突如用立てを命じ、金銀を吐き出させることがあった。
『内無番状差』は、大坂本店から京本店に宛てた書状を束ねたもの。各地の店舗との連携を緊密にするため、京都への報告や京都からの指示などの連絡は書状のやり取りによって頻繁・定期的に行われていた。この史料に宝暦11年に初めて御用金が賦課されたことが記されている。

⑩千人を超える奉公人 明和5年(1768)頃

板式目』と『此言帳

三井の事業は巨大になり、明和5年頃には奉公人の数は江戸本店だけで300有余人、各地の営業店を合わせると千人超にのぼった。そのため、人事管理のための規則も膨大となり、役柄に応じてさまざまなものがつくられていった。
『板式目』は、店内に掲示する規則を板に書いたもの。蝶つがいが付いて折りたためるようになっている。
『此言帳』は京本店の史料で、奉公人たちの不始末やそのときの処分が記録されている。江戸時代の店や奉公人の生活状況がよくわかる、大変価値ある史料といえる。

『史料が語る 三井のあゆみ
─越後屋から三井財閥─

本書は財団法人三井文庫50周年記念事業の一環として編纂された。江戸期から現代まで50のテーマを設け、写真などビジュアル要素をふんだんに用いている。また、各テーマを見開き2頁で完結させているため、一般向けとしても読みやすい書となっている。三井の事業の歴史については、『三井事業史』(三井文庫編)に詳細が語られているが、大部であり、すべてを読み切るには時間とエネルギーが必要。その点で、本書は最新の研究成果をとり入れながらも三井の歴史を短時間で楽しく概観できるように編纂されている。

発売元=吉川弘文館 B5判 154頁 定価=1,600円(+税)
全国の書店、インターネット通販、三井記念美術館内売店で購入可

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.29|2016 Winter より

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