三井ヒストリー

近代日本経済の礎を築いた資本主義の父

渋沢栄一と三井(後編)
(1840〜1931)

帰国した渋沢栄一を待ち受けていたのは、維新によってまったく様相の変化した日本であった。一時は大恩ある一橋慶喜のもとで生きていこうと決意するが、その後不思議な縁によって官界に身を置くことになる。後編は官の立場での栄一の業績、そして野に下ってからの経済活動や三井との関わりについて触れていく。

三野村利左衛門に会う

「近代名士写真 其2」
国立国会図書館蔵

欧州からの帰国の途に着いた幕府使節一行が乗った船は、明治元年(1868)11月3日に横浜に着港。帰国直後の渋沢栄一は、持ち帰った荷物の取扱いや欧州滞在中の経費精算などで多忙を極めていたが、そうしたなかで三井の大番頭三野村利左衛門と面会している。栄一は、後年の談話で次のように語る。

「ただただその時は一時の会見だけに過ぎませぬ。しかし、そういう縁故から私がお目にかかったということが先ずあるのです」

このときは特に用事があったわけではなく、「人に紹介されたので会っただけ」ということのようだが、これが後に深い関係を築く三井との最初の出会いであった。その後栄一は、蟄居を命じられている徳川慶喜に欧州滞在の報告をするとともに、一民間人として慶喜の側で農業や商業に従事していこうと決意し、慶喜のいる静岡に向かった。

合本組織づくりを実行

廃藩置県前の静岡藩は、明治新政府から石高拝借金というものを受領していた。これは新紙幣(太政官札)を全国に流通させる手段としての貸付金で、金融が逼迫していた明治政府は5千万両の新紙幣を製造したものの、流通が極めて悪かったため、諸藩に石高に応じた貸付を行って全国に広めようとしたのである。

70万石の静岡藩は58万両を受領していたが、藩庁の政費として使われるだけで返済の見込みすら立っておらず、栄一は中老職の大久保一翁(後に東京府知事)に欧州で見てきた合本組織を興すことを建言する。この石高拝借金を資本として、静岡藩内で官民合同による殖産興業を進め、そこで得られる利益を返納金にあてることを提案したのである。

栄一の案は直ちに受け入れられ、「静岡商法会所」(後に常平倉に改名)がスタートした。業務は現金貸付や預金の受け付け、農業奨励のための米穀や肥料の買い付けから始め、後には人々が製茶や養蚕業を始めるための資金貸与など、多方面に広がっていった。

栄一は頭取という立場で、事業資金には太政官札を用いていた。しかし太政官札は信用度が薄く、流通価格は額面価格を大きく下回っていたため、買い付けなどでかなり不利な状況にあった。そこで明治2年(1869)2月、栄一は上京し、すでに面識のあった三野村に太政官札を正金に換えるための相談を持ちかけたのである。このとき三野村は、三井の番頭であると同時に東京府会計官付属商法司知司事補という役職にあった。

三野村は栄一の目指すところをよく理解し、協力を約束する。また、今後事業上で必要のあるときの後援もしようと申し出たのである。そして額面より2割ほど安い相場ではあったものの、栄一は三野村の斡旋で太政官札を正金に交換することができ、静岡における事業は徐々に軌道に乗っていった。

大蔵省に出仕

明治2年10月、栄一のもとに東京からの呼び出しが舞い込んだ。東京に出向くと、「租税正」という役職で政府に仕官せよということであった。そんな気のなかった栄一は、当時大蔵大輔の大隈重信に仕官の断りを申し入れるが、逆に説得されてしまう。

役人となった栄一は、税務関係の業務のかたわら、「改正掛長」として旧制の改革にもあたっていった。後に郵便の父とも呼ばれる前島をはじめ、新知識を備えた人物を次々に呼び集め、租税改革、外国からの借金問題、銀行制度の立ち上げ、養蚕・製糸業の改善計画などさまざまな調査研究、政策立案などを進めていった。また、度量衡の単位統一、円・銭・厘への貨幣単位統一、太陰暦から太陽暦への変更を行い、銀行制度では「国立銀行条例」制定まで導いている。

しかし、大久保利通ら富国強兵を主張する方面から理不尽な歳出を強く要求されると、意見の異なる栄一は明治6年(1873)に辞表を提出。いよいよ民間の立場で経済活動を開始する。このとき、三野村は栄一に三井入りを強く望んだが、栄一は「自分一人でやりたい」と誘いを断っている。

第一国立銀行を設立

実業の世界で栄一が最初に手掛けたのが、「第一国立銀行」であった。栄一がまだ官にあって大蔵大丞という身分のとき、三井組や小野組はそれぞれ独自の銀行を設立しようと働きかけていた。しかし、栄一ら大蔵省サイドは独占させることに反対し、明治5年(1872)6月、栄一は自邸に三井、小野の両首脳を招いて合同資本による銀行運営を勧めた。

同年11月、伊藤博文がアメリカで調査したナショナルバンクの制度に基づく国立銀行条例が発布され、翌明治6年(1873)6月に第一国立銀行が設立された。三井が為替座を置いていた日本橋兜町の建物を本店とし、役員は三井、小野それぞれから選出された。そのひと月前に民に下っていた栄一は、同銀行の総監役、後に頭取となって経済活動に努めていく。

三井組首脳と渋沢栄一(前列:永田甚七、斎藤純造、三井高福、渋沢栄一、三野村利左衛門 後列:三井高朗、三井高喜)
(公益財団法人 三井文庫所蔵)

しかし、銀行経営は容易ではなかった。銀行そのものが世間に知られておらず、しかも設立直後に小野組が破綻してしまったのである。すると三野村は第一国立銀行を三井で独占しようと画策し始めたが、もともと合本主義の栄一はそれに反対する。これをきっかけとして三井は別の銀行設立の方向に進み始め、やがて明治9年(1876)、日本初の私立銀行である三井銀行(現・三井住友銀行)が誕生した。三井銀行設立については栄一も賛意を示し、三野村はそれに対して礼を述べたという。

数々の三井系企業に関わる

銀行の次に栄一が手掛けたのは製紙業であった。近代化を進める日本では、紙幣や債券の製造に加え新聞や雑誌など紙の需要が増していた。明治6年(1873)、栄一は自身の発意で抄紙会社を設立。資本金は15万円で、三井が最大の出資者であった。抄紙会社は明治26年(1893)に「王子製紙」に改称。戦後の財閥解体を経て、現在の王子ホールディングス、日本製紙につながっている。

しかし、当初は思うような紙の製造ができず、毎年欠損が続いたために栄一はかなり苦境に立たされていたという。安定した商品ができて利益が出るまでに10年もの歳月がかかったが、以降は事業が軌道に乗り、利益が上がって配当も出るようになった。すると株主が増え、株式会社というものの信用度も増していった。

明治31年(1898)、栄一は度重なる増資の経緯から、王子製紙の社長を退く。当時三井のトップだった中上川彦次郎の工業化路線により、栄一に代わって三井が同社の経営権を握った。

栄一は、最盛期には20~30の会社の役員を務めていたといわれ、三井系企業にも発起人、役員、株主とさまざまな立場で関わっている。先述の三井銀行や抄紙会社以外の代表的なものとしては、先収会社(旧三井物産)、電気化学工業(現・デンカ)、秩父セメント(現・太平洋セメント)、札幌麦酒・大日本麦酒(現・サッポロビール)、台湾精糖(現・三井製糖)、東京石川島造船所(現・IHI)、企業ではないが和泉橋慈善病院(現・三井記念病院)などがある。

栄一と三井トップとの間柄を示すエピソードとして、藤原銀次郎は、「明治初年の日本の財界は、渋沢と益田のコンビで指導されていた。渋沢さんは、その時分から徳を代表し、益田さんは智を代表していた。(中略)二人のコンビは非常によかった」と回想録で語っており、栄一は三野村・中上川に続いて三井を率いた益田孝とも親密な関係を築いていたことがうかがえる。

明治42年(1909)になると、栄一は兼任していたほとんどの企業の役員を辞任し、その後は慈善活動や教育、日米友好に尽力していく。没したのは昭和6年(1931)。栄一自身の著書に『論語と算盤』があるが、栄一の主義はその論語の教えどおり「道徳経済合一」に貫かれていた。現代の企業人にとっても栄一の生き方に学ぶべき点は多くあるだろう。

和暦(西暦) 出来事
天保11年(1840) 武蔵国榛沢郡血洗島(現埼玉県深谷市)に誕生
元治元年(1864) 一橋家に仕官
慶応3年(1867) パリ万博幕府使節随員として渡欧。パリ滞在中に大政奉還
明治元年(1868) 帰国。三野村利左衛門と初めて対面する
明治2年(1869) 静岡藩で商法会所設立
明治3年(1870) 富岡製糸場事務主任となる
明治4年(1871) 大蔵大丞に任ぜられる。新貨幣条例制定
明治6年(1873) 大蔵省退官。第一国立銀行総監役就任
明治7年(1874) 抄紙会社の社務を委任される
明治8年(1875) 第一国立銀行頭取に就任
明治20年(1887) 日本瓦斯製造会社理事、帝国ホテル創立の発起人総代
明治24年(1891) 東京商業会議所会頭に就任
明治26年(1893) 日本郵船取締役に就任
明治27年(1894) 札幌麦酒取締役会長に就任
明治33年(1900) 男爵を授けられる
明治40年(1907) 帝国劇場創立、取締役会長に就任
明治42年(1909) 癌研究会副総裁就任。
兼任してきた多くの企業や団体の役職を辞任
大正2年(1913) 日本実業協会会長に就任
大正5年(1916) 第一銀行頭取を退任
大正9年(1920) 子爵を授けられる
昭和元年(1926) 日本放送協会顧問に就任
昭和6年(1931) 日本女子大学校校長に就任。11月11日没
  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。
  • 文中の年月日は旧暦表記です。

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.28|2015 Autumn より

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