三井百科・百景

三井が発展させた
富岡製糸場

三井時代に富岡製糸場で作られた生糸(公益財団法人三井文庫所蔵)

2014年、世界遺産に認定され、続いて同年末には3棟の建物が国宝に指定された、群馬県の富岡製糸場。明治政府の肝煎りで、生糸輸出における貿易・産業振興のため官営工場としてスタートした同製糸場は、明治時代後半の一時期には三井の傘下にあり、短い期間ではあったが、三井の下で大きな発展を遂げた。

官営の富岡製糸場払い下げを三井が落札したのは、明治26年(1893)のこと。官営時代、同製糸場は生産能率が上がらずに赤字経営を続けていた。その原因の一つが工女の扱い。失業救済の意味もあって旧士族の娘が優先して集められた結果、かつての身分への体裁や、格式・容姿が採用に関わっており、技術を磨くことよりも身なりを気にする工女が少なくなかった。

その不合理を是正したのが、三井のトップとして製糸事業を推進していた中上川彦次郎により、支配人として送り込まれた藤原銀次郎である。当時藤原は弱冠27歳で、支配人は大抜擢といえる。

藤原はその期待に見事応えた。まず給料を出来高制とすると、給料が下がるケースが多発し工女のストライキにも発展したが、才気煥発の藤原はそれを乗り切り、新たな機械を導入するなどして、業績を向上させ、赤字経営から脱却させた。

明治34年(1901)、中上川が病没すると、代わって三井を率いた益田孝は商業主義へと路線を変更。富岡製糸場は売却されることとなり、その後、昭和62年(1987)に操業を停止。115年の歴史に幕を閉じた。

(2016年6月23日掲載)

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