三井百科・百景

上野で見られる
益田孝の茶室・
応挙館

茶人「鈍翁」としても名高い旧三井物産創業者・益田孝は、現在のミャンマー大使館周辺にあたる、品川区の御殿山に広大な邸宅を持っていた。その邸宅にあった茶室のひとつが「応挙館」だ。

応挙館は、元々は天台宗の寺院である明眼院の書院として寛保2年(1742)に建てられたもの。その名称は、江戸時代の絵師・円山応挙が描いたとされる障壁画があることに由来する。明眼院は眼病治療を行うことで知られ、応挙は治療の礼として揮毫したと言われている。

益田は応挙館を買い取って御殿山に移し、益田が弘法大師座右銘披露のために行ったことに始まり、京都の光悦会とともに二大茶会として知られる「大師会」にも使用された。

また応挙館は、日本美術史上での一大事件の舞台ともなった。大正8年(1919)、旧秋田藩の佐竹家に伝わっていた「三十六歌仙絵巻」が紆余曲折を経て売りに出されたが、個人で買える金額ではなかったため、益田が歌仙一人ずつを分割する案を提示。どの部分を購入するかの抽選を行ったのが、この応挙館だった。この抽選には、益田をはじめ團琢磨、馬越恭平、有賀長文、藤原銀次郎、高橋義男といった三井の重鎮、住友吉左衛門、鈴木馬左也の住友首脳や野村グループの創業者である野村徳七、益田と同じく茶人で知られる原富太郎(三渓)などが参加していた。

その後、昭和8年(1933)に東京国立博物館(台東区上野)に寄贈され、同館庭園に移築。庭園は一般公開されていないが、毎年春と秋に開放期間がある。また、この期間以外にもボランティアによる「応挙館茶会」「庭園茶室ツアー」が月に1~2回程度実施されている他、茶会・句会等で利用することもできる(有料)。

  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

(2014年12月19日掲載)

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