三井ヒストリー
三井の社会貢献事業
三井報恩会と
東北農村振興事業
三井報恩会設立の経緯
まずは、三井報恩会が発足した経緯から話を進めていきたい。
昭和初期、ニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに世界恐慌が起こり、日本経済も打撃を受けて街には失業者があふれていった。こうした状況下で三井の「ドル買い事件」が起きた。昭和6年(1931)9月、イギリスが金本位制を停止すると、円の下落を見込んで金融機関や投資家らは円売りドル買いを開始。三井も多額のドル買いを行ったため、これが投機目的の売国行為と激しく糾弾されてしまう。もっとも三井のドル買いは、単に商取引に関わる純然たる自衛措置だったが、ドル買いで巨万の富を得たと思われた財閥に一部の民衆から怒りが向かう。翌年3月5日、その怒りが三井合名会社理事長團琢磨を暴漢が射殺するという凶行を呼び、三井全体に衝撃が走った。
三井合名は体制の変革を迫られ、難局を収拾するため筆頭常務理事に池田成彬を抜擢。すると池田は財閥の閉鎖性の打破を掲げ、三井一族の役員退任や独占的支配の解放、社会への利益還元など「財閥転向」と呼ばれる諸改革を次々に断行していく。その中の特筆すべき事業のひとつが、「財団法人三井報恩会」の設立であった。
昭和8年(1933)10月、三井財閥は「社会事業ニ貢献スル為メ資産三千万円ノ財団法人ヲ設立スル」と宣言し、同年11月に「財団法人三井報恩会」設立を公表した。
この3千万円の出資がどれほど破格だったかといえば、当時の労働者の平均年収が600円前後だったということで推測できる。現在は460万円程度(令和5年分民間給与実態統計調査/国税庁)とされるので、その額で換算すると現在価値で2300億円相当ということになる。
しかし、三井はそれまでも社会への利益還元に力を入れていなかったわけではない。たとえば、貧民救済を目的とした三井慈善病院(現・三井記念病院)の設立が挙げられる。また、関東大震災では罹災者救護費拠出や被災者住宅の提供なども行い、社会事業における支出は毎年600万円に上っている。これだけやっているのだから巨額の支出は不要という内部の意見もあったが、池田はそうした声に耳を貸すことはなかった。そして、池田の改革は概ね世間に好意的に受け止められ、三井に対する社会的な非難の感情は収まっていった。
広範囲にわたる事業計画
三井報恩会の初代理事長には、池田の盟友でもある米山梅吉が就任した。事業計画は広範な社会・文化事業、福祉事業、救済事業にわたり、助成は「社会事業」「文化事業」「特別事業」に分けて行われた。なかでも「文化事業」における農村振興が、長い年月を経て後に三井報恩会との再会につながっていくことになるので、事業内容に少し触れておこう。
農村振興における助成の目的は、荒廃した東北農村を立て直すとともに、反財閥感情とファシズム運動の鎮静化を図る目論見があった。そのため、東北の特定振興村を「直接経営事業」と位置づけ、その意が注がれた。
選定された農村は、青森県西平内村、岩手県彦部村、茨城県黒沢村、埼玉県与野村、千葉県豊田村、京都府雲原村、愛媛県石井村、長野県久堅村など十数村。その中から集中的に支援を行う「特定振興村」として、西平内村(現・平内町)と彦部村(現・紫波町)が指定された。
三井報恩会が取り組んだ農村振興策のひとつに綿羊事業がある。オーストラリア、ニュージーランドから累計約1万5千頭の綿羊を輸入し、東北6県を含む11県105町村に無償で貸し付けた。加えて振興村では、防寒着に適するアンゴラ兎や乳牛の飼育も奨励し、これらも村民の新たな収入源となった。
こうして助成最終年の昭和15年(1940)には、振興村の指定初年度と比べ、農業生産額と一戸当たりの収入額が約2倍になるなど、着実に成果を上げていった。
財閥解体と戦後の苦難
昭和20年(1945)、戦争が終わると、GHQによる財閥解体によって三井報恩会に危機が訪れる。
三井報恩会そのものは財団法人組織のため解散は免れたものの、戦後10年ほど活動記録は空白となっている。三井財閥がなくなり、三井家も資産のほとんどを失っているため、しばらくは活動を休眠していたと思われる。
ただ、昭和28年(1953)創刊の三友新聞による次のような記事で、わずかながら動向が確認できる。
「現在、僅かの綿羊の貸与と診療所を設置しているが維持は困難で従業員も次々と整理し、現在理事者たちは如何にしてもこの三井報恩会の看板を下げないように犠牲的な努力を払っている」(昭和28年10月13日/三友新聞)
こうした窮状は昭和50年代半ば頃まで続いたようだが、やがて厚生省をはじめとする所管官庁から活動の要請が行われるようになった。それをきっかけに三井報恩会は運営を三井家から三井グループへ移管。すると三井各社から毎年多額の寄付金が三井報恩会に寄せられるようになり、徐々に活動も活発化していく。移管初年度の昭和58年度には、ニューヨーク・インターナショナル・ハウスをはじめとする6団体に、総額1550万円の助成も行えるようになった。
特定振興村との再会
こうして活動が活性化し始めた三井報恩会だが、戦前に行われた助成事業のひとつ、農村振興を通じても、かつての業績が見直され、評価される出来事があった。きっかけは、かつて特定振興村として集中支援が行われていた紫波町(旧・彦部村)の歴史調査であった。紫波町彦部公民館では、平成18年(2006)に「彦部の歴史を深める会」を発足し、地域の歴史について調査研究を開始。その活動の中で、同地の旧家から三井報恩会の彦部村に対する支援事業の写真が数々出てきたのである。
とはいえ、長い年月を経て、三井報恩会の活動の実態は歴史の底に埋もれてしまっている。紫波町文化財調査委員の長澤聖浩氏は、自身の著書『三井報恩会と岩手県彦部村』(平成24年5月出版)の中で次のように語る。
「三井報恩会による更生事業のことは、地域の先輩方から聞いて知ってはいたものの、70年も前のことなので事業内容がどのようなものであったか詳しいことは分からなかった。また発見した写真の中で、村役場前で撮影された集合写真があったが、誰が来村された際の写真なのか記録がなく、これも分からずにいた」
しかし、長澤氏が調査を進めていくと、岩手県立図書館で三井報恩会発行の『特定振興村彦部村の實績』を発見。彦部村における三井報恩会の事業全貌が明らかになるととともに、役場前の集合写真は、米山梅吉理事長が来村したときの写真であることも判明した。これをきっかけに、長澤氏は三井報恩会事務局を訪問する。こうして紫波町と三井報恩会との交流が再開し、三井報恩会のかつての事業精神も改めて着目されるようになった。
次代に受け継がれる事業精神
平成25年(2013)6月、岩手県紫波町彦部地区では「三井報恩会と特定振興村彦部村を考える会」(長澤聖浩会長)を組織する。この会の目的は、三井報恩会の功績を顕彰するとともに、三井報恩会、米山梅吉記念館、彦部地区、そして旧・彦部村と同様に特定振興村に指定された青森県平内町(旧・西平内村)との広域交流を図ることにあった。平内町でも同様に「三井報恩会と旧西平内村の歴史を語り継ぐ会」が結成されている。
その一環として、同年9月に最初の交流事業が行われ、三井報恩会や米山梅吉記念館の関係者が紫波町と平内町を視察訪問。三井報恩会のゆかりの地を巡り、その足跡をたどった。ちなみに三井関係者がこの地を訪れたのは米山梅吉の来村以来、実に77年ぶりのことであった。三井報恩会ではその後も折に触れて2町を訪れている。
また、「三井報恩会と特定振興村彦部村を考える会」は、平成26年(2014)の三井報恩会設立80周年に合わせ、紫波町彦部公民館の敷地内に三井報恩会の顕彰碑建立を計画する。実は、この場所にはかつて木製の「三井報恩会特定振興村」の標柱が立ち、焼失していたのだった。その標柱を再建する事業でもあり、同年6月に多くの関係者を集めて盛大に除幕式が行われた。
三井報恩会は令和6年(2024)で設立90周年を迎えている。この農村振興という歴史の再発見は、三井報恩会の活動を次代につなぐ契機にもなったことだろう。こうして同会の事業精神は、次の100周年に向かって三井グループ各社に受け継がれていく。

2014年の三井報恩会80周年に合わせ、紫波町彦部地区に建立された記念碑。三井報恩会・槍田松瑩理事長(当時)や岩手県・達増拓也知事、紫波町・熊谷泉町長など関係者により除幕式が行われた
三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.66|2025 Spring より