三井ヒストリー

高度な医療を多くの人々に

三井記念病院と
日本近代医療の始まり

幕末時に江戸の蘭方医によって開設された種痘所は、民間による日本初の社会奉仕を目的とした医療施設であった。社会福祉法人三井記念病院は、この種痘所の跡地に位置する。100年前に開設された三井慈善病院の時代から、こうした福祉の理念を引き継いで、高度な医療を社会に提供し続けている。

明治期は、すべてが近代日本へと生まれ変わろうとする黎明期である。国をあげて工業化が進められ、工場労働者は増加し続けていた。しかしこの時代、こうした労働者や一般国民に対しては、現代のような社会保障制度や健康保険はなく、もちろん生活保護法など存在もしない。そのため、医療を受けることのできない貧困層は、依然として巷に溢れていた。

これは社会不安の要因となる。また日本の将来を担う人材育成の視点からも大きな問題となっていた。そうしたことから国民の健康に対する施策が強く求められ、当時東京市長の尾崎行雄は明治36年(1903)、貧困層を救済するために市立病院の設立を計画した。

下谷和泉橋通りに建設されたばかりの財団法人三井慈善病院。社会福祉を目的とした民間病院として、画期的な事業だった(三井文庫所蔵)

この計画には三井家も賛同して東京市に10万円の寄付を行ったが、翌年に始まった日露戦争の影響から、3年経った明治39年(1906)になっても計画が実行されることはなかった。そこで三井家は同年に独力をもって、現在の三井記念病院の前身である慈善病院を財団法人組織にて設立することに決めたのである。

財団法人三井慈善病院は、明治42年(1909)に下谷和泉橋通り(現・東京都千代田区神田和泉町)の東京帝国大学医科大学附属第二医院跡地に開院した。社会福祉事業の一環として、三井家からの100万円の寄付を基金として設立されたものだ。平成21年3月21日は、三井記念病院にとって慈善病院の開院からちょうど100年目になる。

三井慈善病院は、診療を東京帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)に委託し、各科長に同大学の教授や助教授、講師を迎えるなど、当初から高度な医療レベルを誇っていた。その東京帝国大学医科大学は幕末の安政5年(1858)、神田お玉ヶ池に開設された種痘所に源流を見ることができる。

最初の種痘所は神田お玉ヶ池(岩本町から小伝馬町にかけての周辺)に開設され、現在跡地には碑が据えられている

蘭学によって日本の医療は大きな変貌を遂げた

幕末という時代変遷の混沌期は、日本の医療においても変革の気運が激しく胎動した時代であった。日本の医療は長く漢方をベースとし、幕府は蘭方医療をご禁制としていた。

江戸期は身分制によって社会が成立していた時代である。医師にも身分があり、医師らは自分の所属する身分に応じて患者を診るのが決まりであった。例えば幕府の最高位である奥御医師は将軍とその夫人だけを診る。旗本を診るのは表医師であり、足軽だけを診る身分の医師もいる。庶民を診るのは官位を持たない医師であり、このような区分は諸藩も同様であった。病院と呼ばれるような組織もなく、幕末前の唯一の例外は小石川療養所*1 くらいのものであったろう。

こうした江戸期の医療体制に風穴を開けたのは、蘭学といえる。シーボルト*2 やポンペ*3 によって伝えられた蘭学(西洋医学)は、医療技術のみならず、思想においても門下に多大な影響を与えた。

ポンペはこのように言う。

「医師にとって、ただ病人があるだけである。患者がどういう階級に属し、どれほどの富を持ち、あるいは持たないか、ということは、なんの関係もない」(司馬遼太郎著『胡蝶の夢』より)

三井慈善病院は多くの民衆に支持され、連日受診希望者が殺到した(三井文庫所蔵)

もちろん江戸期の漢方医であっても、同様の考えを持つ医師はいたに違いない。しかし、身分体制で阻まれていた差別のない医療、また奉仕の精神は蘭学の広まりと幕府の衰退によって徐々にうねり始め、私立種痘所の開設につながっていく。

江戸という町は、封建制度の拠点であっただけに、医療においてむしろ諸藩よりも遅れをとっていた。江戸末期に天然痘が大流行した際にも、江戸の漢方医はなすがなかった。

そこで、江戸在住の蘭方医82名が拠金し、勘定奉行川路聖謨の拝領地である神田お玉ヶ池を借りて種痘所を開いたのである。主唱者は大槻俊斎(当時仙台藩医)で、シーボルト門下の伊東玄朴らが同調した。わが国史上これほど多くの医師が集まって社会奉仕した例はほとんどなく、当時の多くの蘭方医の熱気が感じられる。

この種痘所は半年後に焼けてしまうのだが、その後大槻俊斎や伊東玄朴の屋敷で業務が続けられ、翌年に場所を改めて新築された。その場所が現在三井記念病院の建つ神田和泉町である。

種痘所内には蘭方医学を学びたい書生のための勉学室も併設され、医学校としての性格も備えられていた。

汎ク貧困ナル病者ノ為メ施療ヲ為ス…

種痘所は万延元年(1860)に幕府に移管され、翌年には西洋医学所と名称が変わり、さらに文久3年(1863)には「西洋」が取れて単に医学所と呼ばれるようになった。後に明治政府はこうした幕府の遺産を継承し、開成所と医学所をひとつにして大学東校とし、やがてそれは東京帝国大学医科大学になっていくのである。

種痘所の跡地に建設され、しかも東京帝国大学医科大学に診療を委託した三井慈善病院は、「ク貧困ナル病者ノメ施療ヲスヲ目的」として開院し、当時の診療は生活困窮者に対してのみ行い、また無料であった。まさに種痘所における社会奉仕の精神を受け継いだのである。

平成20年9月に三井記念病院の新しい入院棟が竣工。平成21年1月にオープンした

こうした社会に奉仕する基本理念は100年を経た現在も受け継がれ、本年の1月にはより安心快適な療養環境を提供するための新しい入院病棟がオープンした。また、さらに高度な医療を目指し、平成23年に三井記念病院はより先進的な機能を備えた新しい施設に生まれ変わる。

  1. 享保年間より、薬草を栽培する小石川御薬園に設けられた施設。貧窮の病人に対し、薬を与えて療養させた。山本周五郎著『赤ひげ診療所譚』で有名
  2. フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ドイツ人)。1823年に来日。当時の最新の西洋医学を伝えた
  3. ヨハネス・ポンペ・ファン・メールデルフォルト(オランダ人)。1857年に来日。長崎海軍伝習所で医学講義を行い、松本良順ら多くの蘭方医に影響を与えた。また長崎に療養所をつくり、貧困層に対しても診療を行った

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.2|2009 Spring より

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